2018.09.20 Thursday
目的の為には・・・手段を選べ!
世の中には「目的の為には手段を選ばず」という考え方もあるようだが、これは大きな誤りと言わざるを得ない。何故なら、それが(言葉や形の上で)如何に「崇高な目的」のように思われても、物事の実質的な価値は「事に臨む人間の心柄」によって決定付けられる仕組みになっているからだ。
即ち「質の悪い心柄と質の悪い行為によって導き出された結果は(どんなにタイソウなお題目であろうと)無価値であるばかりか、社会的に極めて有害である」と言って良い。というのも当然ながら社会全体に対して「質の悪い心柄と質の悪い行為」を容認させ、更には推奨させる結果となるからである。(そんな社会が良くなるはずもない事は常識で解る。)
また、よく「涙を呑んで・・・」とか「感情を押し殺して・・・」などの表現で行為自体の冷酷さや残忍さ、また行為に及ぶ際の自らの心をを正当化しようとの目論見が為されるが、この手のものは全てごまかし、インチキと断言できる。何故なら人間は(良きにつけ悪しきにつけ)心に無い言動は絶対に持てない仕組みになっているからだ。つまり「冷酷な行為は(自覚の有無に関わらず)必ずや冷酷な心によって実行されている」ということだ。
因みに「心柄=人間性のレベル」という意味だから「目的の為には手段を選ばず」という考え方自体に既に「人間性の喪失」が表されており、故に「社会のため、人々のためと称しつつ(人間性不在の)行為に及ぶ」ことの不条理、異常性、欺瞞性はもはや疑う余地も無い。
つまり「目的が崇高で価値が高いと思われるなら、それに見合う相応の手段、方法を選べ」ということであって、(今はどうあれ)それは必ず近い将来の常識とされるだろう。(元々常識であって、今が特別おかしいだけだからだ。)