青少年の何でも書き込み寺 (大人も可)

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誠実で偽りが微塵も感じられない話
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    「マスコミに載らない海外記事」のAndre Vltchek(アンドレ・ヴルチェク)の記事がまさにそれだろう。目からウロコを落とすために(少々長いが和訳されているので)是非一読をお勧めする。

    記事はこちら→ http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2018/01/post-e013.html

    それに比べて今朝の「時事放談」(TBS)の石破茂と増田寛也が揃いも揃って悲しすぎる。心にもない事を言っているのがありありと分かるし、同時に現在の自公政権の限界をひしひしと感じさせる。到底視聴に耐え得るものではなく、本当に勘弁して欲しい。(司会の御厨貴の死んだ顔も印象的だ。)

     

    ところで冒頭のヴルチェク氏の記事には彼の(真実を知るための壮絶で凄惨な)取材体験に基づく多くの報告と告発と提言が込められている。文中にもあるように彼の「人間、芸術家、思想家として、常に立場をはっきりさせるべきだ。‘バリケード’のどちら側に立っているのかという自分の位置は、明快で正直でなければならない。そうでなければ、ウソつきになる。」という思いの丈が(翻訳文でありながらも)明確に伝わってくる内容で、要点と思われる部分を以下に書きだしてみる。(太字表記は管理人による編集)

     

    世界中で暮らす人々の‘心をつかもうとして’常時競合している二つの平行する現実が実際に存在するのを、たまに自覚するのは良いことだ。本当の生活と‘偽の生活’が存在しているのだ。現実と、現実そのものより現実らしく見える巧妙に作り上げられた似非現実が存在しているのだ。本物の果物より本当らしい香りがする化学的に製造された青リンゴ・シャンプーのようなものだ。

     

    “真実に出来るだけ近づかなければならない。近づき過ぎると、死ぬことになる。”は、その通りだ!

    真実に出来るだけ近寄るためには、人は素早く、断固、一定の精度で、明らかな失態をさけて行動しなければならない。

    身の回りの人々が自分を信じていてくれる必要があり、自分も、誰を信じ、誰を避けるべきかをわかっていなければならない。

    独力でやるか、少なくとも大半の時間、独力でやらなければならない。

     

    良いものである場合、決して単なる‘報道’ではない。それはジャーナリズムを遥かに超えるか、さもなくばたわごとだ。していることには何らかの優雅さが必要で、哲学と人道的なものや、背景やとイデオロギーや情熱もたっぷり必要だ。

    こうした仕事には‘客観性’などない。客観性というのは、主流メディアが流布している幻想、おとぎ話に過ぎない。しかし、決してウソを言ってはならない。目撃し、語らねばならないことを、そう言うべきだと思う形で語り そうしながらも、読者や視聴者に、自分の立場を正確に伝える義務がある。

     

    苦く本質的な真実はこうだ。たとえ自分の命の危険をおかそうとも、たとえ酷く負傷したり、心理的に困憊したりしようとも、多くの感謝や支援を期待してはならない。

    (中略)

    これは非難ではなく、人類の存続のために戦おうとしている人々に対する単なる警告に過ぎない。“完全に自力でやるしかない。時にくずおれるのは確実だ。”

    それでも、私は他に意味ある生き方を知らない。私は誰かの人生と私の人生を取り替えようとは思わない。

     

    世界は全く違っていて、聞かされているより、実際にはずっとずっと美しく多様だということをお知らせさせて頂きたい。今は炎に包まれている場所の大半さえ美しいのだ。そして、もし平和のままにしておけば、こうした人々は繁栄するのだ。

    世界は、そのために戦うに値する。世界は守るに値する。

    (管理人注釈1:「美しく多様」とは風景のことではなく、人の心と人の営みのことに相違ない。)

    (管理人注釈2:「戦う」「守る」とは武力闘争ではなく「広く識らしめ対峙すること」に他ならない。)

     

    植民地主義は常に悪だ。帝国主義は常に悪だ。いずれかの文化、宗教、あるいは経済の至上主義は、全くいかなる例外無しに悪だ。

    比較的小さな一大陸の国々の集団が全世界を強奪し、自分に都合の良いように形作り、違う肌の色、信仰、価値観の人々を奴隷にし続けるのは全て明らかに間違っている。

    だが世界はそういうものだ。残酷で、不公平で、一つの攻撃的で、強欲で、陰険で傲慢な少数派に支配されている。世界は依然そういう状態だ。繰り返そう、世界は益々そうなっている。

     

    世界を略奪し、奴隷化しようとし続けている連中が流布する“ニュース”や“情報”を決して信じてはならない。ご自分で直接見て、聞いたこと、感じたことだけを信じよう。もし、そういう人々を見つけ出せたら、この世界を愛している人を信じよう。自身の感覚を、自分の内在的論理を、自分の感情を信じよう。

     

    ご自分の目で見るまで、本当に確信するまで、その人々と話すまで、彼らが言っていることを本当に理解するまで、地球上のどこであれ、いかなる外国への爆撃や、経済制裁に賛成投票してはならない。テレビだけ眺めた後で判断や結論を出してはいけない。お忘れなく。似非現実は人を殺すのだ! そして、それは、あなたをその殺戮に参加させたがっているのだ。

     

    世界を自分の目で見た後、それを理解した後、皆様は私に同意されるのはほぼ確実だと考えている。現時点で、この地球上には二つの平行現実が存在している。一つは、本当の人間の生活や物語でできており、もう一つは、世界のただ些細で、巧妙に操作された解釈だ。(本物の)現実は進歩や思いやりや楽観や調和を熱望している。もう一つ(偽もの)は、常に不確実さや無主義や破壊や絶望を広めている。

    連中が“偽ニュース”と呼ぶもののみならず、まるごとが、既存支配体制が作り出し、ヘルメットを被り、防弾チョッキを着て、4WDに乗り、目立つ「報道」記章を付けた男女が支えている‘偽現実’なのだ。

     

    要点を書き出しただけでもかなりのボリュームだが、実際全文を読んで見ても無駄な文言は一つも見当たらないほど内容の濃い記事となっている。当然だ。命懸けの何十年間の思いの丈が、たかだか一文に収まる由もない。何れにせよこうした「誠実な人々」の地道な努力と心の訴えを決して無駄にしてはならないと思う次第だ。(そんなことをすれば罰(バチ)が当たるに違いない。)

     

    「論理は実践によって証明されるものであり、実践によって証明された論理ほど強いものは無い。それらはすべて人ひとりが全身全霊を以って自力で成し得るもの」という真理に肉薄する、たいへん示唆に富んだ文章と思い紹介致しました。(訳者の方に感謝申し上げます。)

     

    | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 07:50 | comments(0) | - |
    「他者を排除せず」して最善を尽くす方法(その2)
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      まず「人間関係」には大別して2通り有ると思われます。それは相手が「いた方が良い」と思える場合と「いない方が良い」と思える場合です。(どちらでもないという場合はここでは除外します。)それらは例外なく「自分が相手から被る利益と不利益の比率」によって生ずる「快感(=心地良さ)と不快感(=ストレス)の度合い」に応じて感覚的にもたらされるものですから、元々「自己本位」で主観的な話ということになります。

      ただ「ストレス」は現実に精神的疲弊のみならず、(神経系を通して)肉体的ダメージをもたらす場合すら有るので「攻撃を受けている」という実感の下「消え失せて欲しい」という気持ちに傾く経緯自体は分からないでは有りません。

      しかしそうなると「わがまま(自己中心)な人」ほど選り好みが激しく、その分感じるストレスも大きい訳ですから、単にストレスを減らす方向で物を考えれば良いという事にはなりません。そればかりか、それでは永遠に「争いの火種」を持ち続ける事になります。つまり問題は「ストレスをどうするか」ということです。

      これについては以下の過去記事が参考になります。

       

      ○ 「ストレス」って何だ?

      ○ ストレス解消法について

      ○ 子どものストレス

       

      これらの主旨は以下の通りです。

       

      ・ストレスは自分の身に及ぶ「何かを改善するためのきっかけ」として作用する。
      ・ストレスを感じたら「速やかに問題点を認識、分析して、ただちにその原因を突き止める努力をする」こと。

      ・「自分自身」を変えたり動かしたりする方が「他人や環境全体」を変えたり動かしたりするより遥かに楽で効率的である。
      ・まず「自分自身の側の努力」がしっかり行われているとすれば、それが「先方に対する説得力=相手を動かす力」ともなる。

      ・ストレスは「短命」であればあるほど良く、心身の機能を正常に保つためには、絶対に「慢性化」させてはならない。

       

      例えば交渉の場に於いて「相手に譲歩する」という事を考えた場合、実際に「譲る事が出来ない」のと「譲りたくない」のとは全く意味が異なります。多くの場合は「どちらが主導権を握るか、優位なポジションに立つか」という謂わば「今後の成り行きを見据えた上での勝敗を決する材料」として譲る、譲らないの話が持ち出された挙句「(本当は譲歩の余地が有るにも関わらず)断じて譲れない」などと結論付けたりしますが、その時点で相手に「嘘を付いている」のですから、これは極めて「不誠実」な態度と言わざるを得ません。

      このように「弱みを見せられない」「面子を保つ」「意地を張る」などが常態化しているのであれば、ストレスが溜まる一方であるのも頷けます。しかしその原因が自らの「不誠実さ」にある事は明らかです。

       

      一方「手の内」を全て晒して「これ以上(譲ろうにも)譲れるものが無い」とする人に対して更に追い打ちを掛けようなどという人は滅多にいません。またそんなことをすれば周囲の人たちが黙っていないでしょう。

      このように常に「誠実な対応」を心掛ける人は(護るものや望むもの」が多くない分)基本的にストレスが有りません。また他人から信頼されるため、お互いに心を開いた関係が持てやすく、そうした積み重ねが相互扶助の社会環境へと発展することにも繋がります。またそうした安定的な関係を持続させるためには「自らのキャパシティの更なる向上」が重要であることにも気が付く事となるでしょう。何故なら「譲れるものが多い」ことが信頼性の一つの証しとも言えるからです。

       

      「誠実」のみがストレスを無くし、争いを無くする。今やこれは理想論ではなく「現実論」です。歴史的に云々と言いますが、それは「それぞれに誠実さが欠けていた証し」に過ぎないのではないのですか。そもそもやりもしないで「誠実」の価値を語る事は出来ません。

      | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 09:57 | comments(0) | - |
      「他者を排除せず」して最善を尽くす方法(その1)
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        昨日の記事は「霊的」な内容だったにも関わらず、多くの方々に閲覧頂きました。「霊的こそが本命」と考える私としては、まことに喜ばしい限りです。

         

        さて、昨日の記事に於いて(人の在るべきスタンスとして)「如何なる場合であっても決して「他者を排除」せず、それを前提として最善を尽くす」という旨を申し述べましたが、当然そこでは「無抵抗主義」「(言葉の暴力を含む)非暴力主義」「平和主義」「人道主義」など、争い事を忌避し、回避するための様々な主義主張、方法論などが想起されることになります。

         

        しかし問題は(理想論はともかくとして)それらが果たして(社会の実情に照らして)「現実的であるのか」「実現性があるのか」という一点に尽きると思われ、有史以来人類がこれまで際限なく積み上げてきた様々な「対立構造」とそれに伴う形で幾度となく世界中で繰り返されてきた「戦争、紛争、抗争の類」を以って、それらを(良い悪いの話ではなく)「歴史的事実」「歴史的認識」或いは「歴史的教訓」などとして、そうした「既成事実」に則(のっと)った考え方を「現実主義」と称する場合があるように思います。

         

        そうした人たちに言わせれば「お花畑(実現不可能な理想論(=子供じみた稚拙な発想)を卒業して早く大人(=現実主義者)になれよ。」ということでしょう。つまりそこでは「対立と争いは不可避」という認識であって、あるのはただ「如何に勝つか、如何に負けないか」ということに集約された発想のみとなります。

         

        この「(歴史的認識のもと)現実に即応する」という考え方は一見合理的で正しいように見えますが、重大な欠陥を抱えています。

        ひとつは「対立と争いが不可避」とする論理的根拠に言及していない事です。それではまるで「過去の争いの当事者たち」の選択が常に正しかったという「雑な話」としか聞こえません。(歴史的事実を根拠とするならば、一件一件丁寧な考察を行わなければ判断の是非すら解りません。)

         

        更にもうひとつの欠陥は、「大人(=現実主義者)」に必要なメンタルは「闘争心と奸智、狡知、邪智で十分だ」と言っているようにしか聞こえないことです。何故なら「人間性の向上」や「人格や品格の形成」といった人間的成長がそもそも何のために必要かと言えば「従来不可能と思われてきたことを可能とするため」であり、言い換えればそれは「理想(=お花畑?)を現実にするためのパワーアップ」に他なりません。

        つまりそうした全てを見限って現実的対応に固執する限りは、少なくとも「人間的成長は不要」ということです。(私は若い頃「現実主義者」だった時期もあるので、そうしたことはよくわかるのです。)

         

        次回は「理想を現実にする具体的方法」に触れてみたいと思います。

        | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 10:05 | comments(0) | - |
        世界は完全に「二分割」の様相を呈している。
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          本日は「霊的」な話となりますので、関心の無い方はスルーして下さい。

           

          実は昨日の記事を書いた後に当の村本大輔氏のツイッターを閲覧し、いわゆる「炎上振り」を確認致しました。大概の炎上がそうなのでしょうが、それは「疑義」や「議論」というような体裁のものではなく、明白な「攻撃と防御、つまり戦(いくさ)」以外の何ものでもないということがよく解りました。またこの事からして、一昨日の記事でも書いた通り「論じる時代は終わった」ことが解ります。何故なら互いに「聞く耳を持っていない」からです。これは外交問題に喩えれば「交渉決裂状態」の後に来る武力侵攻(=戦争)そのものです。

          このようなことが日常化しているのであれば、人々の判断に狂いや歪みが生じてくるのは当然でしょう。

           

          ところで今日のタイトルにある「二分割」とは、世間で言うところの「右翼、左翼」「保守、リベラル」「自由主義、社会主義」「改憲派、護憲派」などといった政治的スタンスの話ではなく、人種、宗教、或いは社会的立場や経済格差の話でもなく、もっと基本的な「人間的、思想的、そして霊的」二分割の話です。これらは「良心という霊界由来の心の働き」が、日常的な人間の言動にどの程度影響を及ぼしているかという比率によって線引きが(自動的に)行われます。

          「そんな目に見えない曖昧な基準じゃ分からない」と心配?する必要は有りません。むしろこれは私たちが誰でも簡単に自己診断出来る「非常に解りやすい分割の仕組み」と言えます。

           

          それは一言で言えば「(事と次第に依っては)直接的または間接的に他人の死(=存在の消滅)を望む場合があるか否か」というだけの事であって、そのくらいは誰でも自分の胸に手を当てて考えてみれば判ることです。(「判らない」という人はトボケているだけで、ただ「イエス」と言いたくないだけのことでしょう。)

          例えば「あんな人どこかへ引っ越しちゃえばいいのに」「アイツの顔も見たくないのでウチの会社辞めて欲しい」「死ねとまでは思わないけどあんな奴は大怪我でもしてヒドイ目に遭えばいいのに」などはよく有る話かも知れませんが全て「アウト」です。何故なら「霊的」には「消えろ、失せろ」は「死ね」と同義語となるからです。(その意味ではツイッター上での「戦闘行為」に参加する人たちも、そこに「排除」の思想が有る限り全て「アウト」です。)

           

          重要な事は、それが心の内のものであろうと実際の言動であろうと関わりなく「排除=死、死=排除」を意味するということであって、それは同時に自らが(霊的因縁の存在すらも知らないくせに)おこがましくも「他者を裁き審判を下している」ということでも有ります。

          因みにこの問題は厳密には司法の場を預かる「裁判官」にも言える事であり、彼らにしても「(そんなことは百も承知の上で)社会の保全のため便宜上それを行なうしか術(すべ)がないのだ」という達観のもと、謙虚の上にも謙虚を重ねて職務を全うするという姿勢が望まれる事は言うまでも有りません。

           

          故に、単に自分の都合や感情で他人を裁き「死を望む」など、とんでもない話ということであって、無論そこには「国家のため或いは家族のため」などといった「大義名分」も成り立ちません。何故なら、それらも所詮「自己、身内、仲間」という範疇のエゴイズムに過ぎず、それを第三者に論理的に理解させ得る方法など存在しないからです。更に言えば「身内と仲間は(ご都合主義から言えば)自己の一部」に過ぎず、その正体は100%のエゴイズムと知るべきでしょう。(他者との関係性を垣根で仕切った時点でインチキだということです。)

           

          つまり「二分割」の中身はこういうことです。

          ○ 如何なる場合であっても決して「他者を排除」せず、それを前提として最善を尽くす人々。

          ○ 場合に依っては「他者を排除」してでも、己と周囲の限られた者たちの権益を守ろうとする人々。

          この内最後まで残れるのは日本では凡そ45%とされるどちらか一方でしょうが、その理由は極めて「霊的」なものです。

          | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 10:03 | comments(0) | - |
          沈黙(という名の悪)と敢然対峙する村本大輔
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            昨日も言った通り、もはや論じない。ムダな時間だ。それでなくとも人間的に、社会的に、そして何より論理的に「白黒」はついているのだから。その意味でも今後はこうした「レポート」が多くなるだろう。

             

            まずは元旦(1日未明)に放送された『朝まで生テレビ!』(テレビ朝日)に出演したウーマンラッシュアワーの村本大輔氏に関する「リテラ」のこちらの記事をご覧頂きたい。

            記事はこちら→ http://lite-ra.com/2018/01/post-3711.html

             

            ここで重要な事は、村本氏は始めからそのつもりで「とある役柄」を沈着冷静に演じ切っているに過ぎないということだ。それは「番組が本当に視聴者(=一般国民)目線で視聴者のために作られているのか」或いは「番組が番組側と出演者各位の予定調和の下に特定の結論に視聴者の意識をを誘導していないか」などを視聴者目線でチェックし、成り行きがおかしいと感じれば「視聴者に成り代わって意義を唱える」という役柄だ。

             

            この「○○に成り代わって」というのは社会人の基本であって極めて普通の感覚であり、取り分け「皆さんに成り代わって」事に臨むというのであれば「称賛」されこそしても断じて「非難」される謂れは無い。

            だからどう見ても「もっと勉強しなさい!」などと言い放った人の方が恥ずかしい。何故なら相手(=村本氏)が「みんなの思いを背負ってそこにいる」という、(公共の電波を使った番組の出演者として)当然の心の嗜(たしな)みにまで思いが至らなかった心の狭量さを自ら露呈させてしまったからだ。

             

            但し村本氏はそういう場に於いても決して「視聴者の代弁」などといった直接的な表現やニュアンスを持ち出さず、むしろ「オレはわからない」「オレはこう思う」「オレはそう言いたい」など一人称的な表現に徹することで周囲を混乱させている。

            それはひとつには「(政治家でもあるまいし)芸人のくせに何様だ」という批判を多少なりとも回避する意味に於いて「破天荒な芸人」として振舞っているということもあるが、同時にに相手の油断を誘い「本音をあぶり出す」効果があることも重々承知しているはずだ。

             

            何故そう言えるのか。村本氏自身のツイッターを見る限り、そうとしか思えないし、そうしたことは私自身が過去40年以上ずっとやってきたことでもあるからだ。

            何れにせよ「学者と称する連中の屁理屈」よりも「命がけの芸人の道理」の方が遥かに有益で魅力的である事だけは間違いない。

             

            ※ 余談だが、テレビと言えば正月は報道番組が皆無だが、世界も日本も何事も無いという意味なのか?それとも国民が「正月はニュースなんか見たくない」と言ってるのか?どっちも有り得ない。いったいどういうつもりだ。

            | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 09:41 | comments(0) | - |
            物事を「論じる」時代は終わった
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              「今年は対峙の年」と申し上げ、これまでその概要や詳細を述べて来ましたが、それは別の言い方をするなら(本日のタイトルの通り)「物事を論じる時代は終わった」となり、それは「もはや論じる事の役目は終わり、その必要性も失くなり、そんな時間も余裕も無い」ということです。(極端で乱暴な話であることは重々承知の上ですが、そう言わざるを得ません。)

               

              何故なら、私に言わせれば人々が互いに「論ずる」必要があるのは現状に於いて「(全部または一部が)隠されたもの、見えていないもの」について、それらを論理的に導き出して行きたい場合に限ります。しかし昨日の記事でも申した様に、社会の建前の多くが瓦解、崩壊してしまった事で(国際、国内を問わず)殆どのものが既に「丸見え状態」になってしまっています。

              それは物理的な意味に留まらず、そうした状況の中で「開き直り」や「下手な嘘」や「遁走」を繰り返す人々の「人間的価値の可視化、顕在化」にまで及んでいて、そうしたものを日々目の当たりにしては「今更論じる余地もない」と感じたとしても不思議では有りません。論じることは「言葉遊び」ではないのですから。

               

              しかしこうした「誰もが容易に物事を見定めることの出来る丸見え、丸出し社会」であっても尚、相変わらず「何がどうなっているのかさっぱり解らない」或いは「今までとなんにも変わらない」などと言っている人たちがいるとすれば、それは(頭が悪いとか理解力が乏しいとかではなく)何らかの理由で「見たくないものは見ない」として「心の眼」を固く閉じたままにしている人たちに相違有りません。(そういう器用な事が出来るのも人間の特徴ですので。)

              但し外部から正しい情報を得ることを拒むことは、私たち人間にとって死活問題となりますので、その意味ではそういう人たちは「自滅タイプ」と言え、決してお勧め出来ることでは有りません。(「自由」と言われればそれまでですが。)

               

              何れにしても「論じる時代の終焉」と共に今度は「価値の逆転現象」がもたらされる事となるでしょう。何故なら従来型の多くの価値観が「インチキ」に基づいて作られた事も明らかにされつつあるからです。

              例えばテレビのニュースで上から順番に並べられた10項目のニュースの内本当に必要なものは最後の1項目だけかも知れません。(1つ有ればまだ良い方だという話さえあります。)

               

               

              | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 13:16 | comments(0) | - |
              本日は2018年元旦です。
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                皆さん、明けましておめでとうございます。早速ですが(アクセスログを見ると)昨年12月の1ヶ月間に456件の記事に対してアクセス頂いています。(アクセス総数は5707件。)これは日々の更新分を差し引いても420件以上の過去記事をわざわざ閲覧頂いたことになり、私としても日々精魂込めて書いている記事が「過去のもの」とならず、皆さんによって活かされ続けていることに、人知れず細やかな喜びを感じている次第です。

                 

                さて、以前から申し上げている通り、今年は「対峙の年」ですが、簡単に言えば「しっかりと向き合う」ことです。問題は「何と向き合えば良いのか」の一語に尽きますが、それは各々が「目の前に示された結果としっかり向き合うこと」を意味し、また誰もがその必要性に迫られるであろうということです。何故ならそれを怠ると「その人自身が困る事になる」に違いないからです。

                 

                ここで昨今の世の中の出来事に目を向けて頂きたいのですが、起きている事と言えばその多くが「長年通してきた事が通らなくなった」或いは「長年保ってきたものが保てなくなった」または「長年隠し続けてきた事が隠し切れなくなった」など、長年当たり前と思われ、これで良いと信じられてきた「ある種の驕(おご)りに基づく不適切な体制の崩壊」によって生じた結果と言えるでしょう。(但しそれを伝える大手メディアも同じく崩壊しているので、それらが正しく伝えられているとも言えませんが。)

                これは社会の質や監視体制が向上したためではなく、いよいよ限界まで「社会の質が低下した」事を意味します。

                 

                ところが驚いたことには、いざそのような「不都合な結果」に直面した際に「立派な背広を着た人たち」が我先に取った行動の多くは「開き直り」か「遁走」であるという事実に私たちは直面しています。(これは例えば「轢き逃げ犯」の心理に良く似ています。)しかも「上の人たち」がそうであるということは、このような傾向は既にあらゆる社会的階層の人々に共有されている恐れが有ります。しかしそれでは「個人と社会の双方」が成り立たず(放っておけば)双方ともに「自滅」することは明らかです。

                つまりこれは「自滅文化」です。

                 

                故に私たちはまず自己の内面の「不都合な結果」に対して「しっかりと真正面から向き合う」必要が有ります。もちろん「自滅」しないためです。そしてその後、身近な社会環境に於けるあらゆる「不都合な結果」に対しても同じく「しっかりと真正面から向き合う」必要があるということです。もちろん、掛け替えのない社会を「有らぬ方向(=自滅)」へ向かわせないためです。

                これは明確に「やればやっただけの結果」を伴い「やらなければやらないだけの結果」がついて回ります。

                そうして正に今、卑怯や怠惰や強欲と決別しなければ、先行きそうした機会さえも失われてしまうでしょう。

                 

                元日早々こうした内容の記事を発信せざるを得ない事を以って、切迫感が少しでもお伝え出来れば幸いです。

                 

                 

                | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 01:53 | comments(0) | - |
                今日は2017年の大晦日です。
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                  皆さん、いつも当ブログにアクセス下さりありがとうございます。おかげ様で当ブログの提唱する「みんなで良くなろう、みんなで良くしよう」という人々の意識が着実に(日本、世界を問わず)社会に根付いて来ているように思えます。それは単純に「独りよがり、独り占めはダメだよ」という子どもでも解る当たり前の話に過ぎないのですが、それに対して頑として応じようとしない「少数のエゴな人々」との対峙は今しばらく続きそうです。

                   

                  それらは政治学的には、未だに過去の「植民地支配」の夢醒(さ)めやらず「帝国主義」を脱する事が出来ずに「新植民地主義」による支配に奔走する宗主国及び「傀儡政権」と、そうした(屁理屈はあっても)何ら論理的根拠のない理不尽で不条理な独善的政治支配、差別的経済格差に対して「おかしいものはおかしい」とする(世界中の)大多数の人々との間にもたらされる事となる「対峙」です。

                   

                  そうした現状を肌感覚として伝えるという意味で「マスコミに載らない海外記事」というサイトのAndre Vltchek(アンドレ・ヴルチェク)氏の以下の記述は示唆に富んでいると思われます。関心をお持ちの方は一読をお勧めします。(翻訳ですが主旨はしっかりと伝わってきます。)

                  http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2017/12/post-5259.html

                   

                  私はここでヴルチェク氏の見解が100%正しいと言うつもりは有りませんが、少なくとも日本には(そのままでは)全く入ってこない情報ですから、(安倍政権曰く)両論併記と言うなら、こうした情報に日頃から触れておく必要があるのではないかと思います。

                  因みに現在の日本政府の国際的な立ち位置は、新植民地主義を憚らない欧米列強(特にアメリカ)の傀儡政権(と見られても仕方がない)ところのものだと思います。その証拠に(国民ではなく)常にアメリカの反応を恐れ、常にアメリカの顔色を見ながら政治をしています。

                   

                  何れにせよ世界が今後は(アジア、アフリカ、中東、ロシアを対象として行われてきた)欧米列強の「新植民地主義」に対して敢然と対峙して行く構図となるであろう時に、当のアジアの中の日本が最後まで「アメリカの太鼓持ち」で良いのか、それでいてボコボコにされることはないのか、それ以前に「恥ずかしくないのか」という視点でそろそろ真剣に考えるべき、と問題提起をさせて頂き、今年の締めくくりとさせて頂きます。

                  皆さん、本年もありがとうございました。良い未来を!

                  | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 07:25 | comments(0) | - |
                  みんなが「好き勝手」に生きようとすれば
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                    みんなが「好き勝手」に生きようとすればどうなるか、それは今の社会が如実に体現しています。現社会に蔓延する不公平、不平等、不謹慎、不道徳、不条理、無関心、無感動、無気力などは、すべて「自由(主義)」の名のもとに「(ルールさえ守ればあとは)好き勝手にしていいですよ」とされてきた結果に他なりません。

                     

                    例えば「ルールさえ守れば」と言ってもそれは「法令違反に対して罰則規定がある」という意味で、極端に言えば「そんなことを意に介さない人たち」にして見れば平然とルールを破るに違い有りません。何せその人たちにとっては「自由(=好き勝手)」が最優先事項であって「法令遵守(=他人に迷惑を及ぼさない範囲で)」は多々有るリスクのひとつに過ぎないのですから。(これではいくら法整備しても、犯罪自体が益々狡猾で悪質になるだけです。)

                    つまり「自由(=好き勝手)」な社会とは、基本的に強者が弱者を侵害して良いとされる社会のことです。

                     

                    そこにはもうひとつの問題が有ります。例えば私たちは日頃「政治家や役人」に対して「公人としての責任の自覚」を求めますが、それは謂わば「俺達は自由((=好き勝手)な生き方をするが、お前ら(公人)は一切まかりならん」と言っているようなもので、別の言い方をすれば「俺達は欲の皮を突っ張らせて生きるが、お前ら(公人)は聖人君子でなければならない」ということです。

                    私に言わせれば、このような理屈が通るはずが有りません。実際にあった話ですが「オレはこんなダメ人間だが、お前たちはちゃんとしろよ。」と言って我が子を諭(さと)した父親に対して、子どもが(何でお父さんだけいいんだよ!?)と強い憤りを感じたそうです。当たり前です。

                     

                    確かに現状「政治家や官僚たちの臆面もない自己保身振り」には目を疑いたくなるものが有りますが、忘れてならないのは現在の日本国民の最優先事項がそうした自己保身を含む「自由(=好き勝手)」であり、それを何十年も国を挙げて当たり前のようにしておいて、今更公人にばかり「滅私奉公」を求めるのはいくら何でも無理でしょう。

                    それにそもそも「欲の皮の突っ張った人」が(選挙で)自分たちの代表として「聖人君子」を選ぶ訳が有りません。要するに私たちの「社会の歪み」は元を正せばそうした「国民一人ひとりの勘違い」からきているというのが正しい認識と言えるでしょう。

                     

                    来年こそは、まずはそういうどうしようもない自分としっかりと「対峙」出来れば良いと思います。しかるのち(余裕が有れば)自分たちを取り巻く諸問題と「対峙」すれば良いでしょう。(せめて「崖っぷちに立たされている」という実感さえ持てれば少しは本気になれるのでしょうが。)

                    | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 09:48 | comments(0) | - |
                    2017年も残り3日となりました。
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                      振り返れば2016年は「変動、変化」の年、2017年が「瓦解、崩壊」の年、そして来年2018年は「対峙」の年ということですが、それとて別段、それぞれが切った羊羹やカステラの如く整然と分け隔てられている訳ではなく、常にゴールに向けた一連の流れの中の様々な段階が混在しつつも「大局的にはそうなるだろう」という意味と受け止めて頂ければと思います。

                      つまり来年は「対峙の年」でありながらも、依然として「変動、変化」の動きは収まらず「瓦解、崩壊」も起こり続けるということです。ただ何れもタイムスケジュールに沿った一連の動きと考えれば、波状的に到来するそれらのタイミングは決してアバウトなものとは言えないでしょう。

                       

                      ところで何故「瓦解、崩壊」の次に「対峙」が来るのかということですが、本来であれば次に来るものは「再生、再建」など建設的な話であって良いのではないのでしょうか。これはおそらく「自然界広し」と言えども一連のサイクルの中で「対峙」などという過程を要するのは人間社会ぐらいのものと思われます。

                      「対峙」は人間だけが持つ「法則や論理で測れない部分」即ち「自己執着」の存在によって発生する事態と言って良いでしょう。この「自己執着」というものは、解りやすく言えば「自分ひとりの利益のためなら他の70億の人々を害することをも厭わない」というメンタリティを指します。改めて聞くと「そんな大それた事」と思うでしょうが、「いざとなれば他人の事など気にも留めない」とはそういうことで、事実毎日のようにそういう人たちが入れ替わり立ち替わりニュースに登場しています。

                       

                      今後は追い詰められた「自己執着」がいっとき暴走する事があるかも知れませんが、それらは瓦解、崩壊後の残渣に過ぎず、何れも脅威とは成り得ないでしょう。

                      | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 15:13 | comments(0) | - |
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