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「霊層を上げる話」が再優先となる理由
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    ※本日の内容は極めて霊的に付き、信じるか否かは皆さんの自由であって、押し付けは致しません。

     

    私たちの社会は現在多くの問題を抱えており、課題が山積しています。もちろんそうした「問題意識」の持ち方には(その人の視点、視野、立場などに応じて)個人差が有りますが、それが国際問題であれ、国内問題、地域社会、はたまた職場、学校、家庭内の問題であれ、(問題解決のために)私たち一個人がまず取り組むべきは「自らの霊魂を向上させること」であることに変わりは有りません。

     

    その理由の一つとしては、霊魂の価値が低い(=霊層段階が低い)と、霊界由来の「智慧、勇気、愛、情(なさけ)」から構成されるところの人間力が不十分な状態のため、本来在るべき力を発揮し得ないという事態が発生します。前向きなアイデアや考え方が持てず、物事に行き詰まりを感じるのはそのためで、この状態が続くとやがて悪循環が発生し、更には自滅スパイラルに陥ることになるでしょう。

    となれば、この状態で事の次第に右往左往しても余り意味はなく、それよりもまず霊層を上げて「本来の力を取り戻すことに専念する」のが理に適っていると言えます。

     

    「霊魂の向上」を再優先とするもう一つの理由は、そうすることが現存する多くの霊魂に霊界経由で反映し、影響を及ぼすことで、結果的に自らの意思や志に対して多くの「霊的協力」を得られる様になるからです。無論その中には「人」も含まれます。何故なら「人」は元々霊魂と肉体が合体したものだからです。

    このように「一人の人間が霊的に向上する(=霊層が上がる)」ということは、霊的に非常に意味を持ち、非常に大きな出来事であるということです。

    もちろん「向上の度合い」が上がれば上がるほど、その霊的反映の効果も飛躍的に高くなります。(それらは宗教的には「徳」として解釈されるものですが、メカニズムの詳細はここでは割愛します。)

     

    霊魂には先天的資質の部分や因縁上の細かい差異も有って、そのため霊的向上の際の影響力や影響範囲はそれぞれに異なりますが、一人の人間の霊的向上によって、少なくとも(因縁を有する)数百体もの霊魂が影響を受けるのは間違いなく、それは私たちの持つ「先祖、祖先、先代」などのイメージを遥かに凌駕する数となります。(影響力の多大な霊魂に於いては、その数は(因縁上)数百万体に及ぶでしょう。)

     

    但し、霊魂が下向(げこう)すれば、当然「同じだけの負の影響」が発生することを忘れてはなりません。(運命上の)負の連鎖の殆どが、こうした本来の霊的協力関係を自ら破壊し、消失させてしまうことによるというのも、また動かし難い事実なのです。

    | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 09:06 | comments(0) | - |
    「自由」の概念(自由とは何か)
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      「霊層を上げる」とは、平たく言えば「良い人になる」事であって、それが人間にとって悪い事であるはずもないのですが、しかし何故か人間は進んで「良い人」になろうとしません。それは何故でしょうか?

      それは「良い人になると失うものがある」と考えるからです。失うものとは、他ならぬ「自由」のことです。

      そのため率先して良い人になろうとはせず、多くの人たちは「普通の人」を目指します。

       

      では「普通の人」とはどういうことでしょうか。それは社会に於いて「それでいい」「悪くはない」など、(取り敢えず)「社会適合者としての評価を得ること」を意味します。但しそこには「普遍性」とおぼしきものは存在せず、例えば日本とアメリカと北朝鮮では、それぞれに当然の如く評価の基準自体が異なります。つまり社会の数だけ異なる評価の数が存在すると言うことになり、そこから「普通=迎合」という意味であることが判ります。

       

      「普通の人」のメリットは、目立たない、角が立たない、攻撃されない、排斥されないなど、多々あるとは思いますが、中でも最大の恩恵は「(社会が許容する中での)自由が獲得出来る」ことではないでしょうか。その傾向はおそらく、立場が社会の中枢に近づくほど強くなり、多くの人が競争社会の中で「上を目指す」のも、結局は「より多くの自由」を欲するがためと言えます。

       

      但し(霊的には)この「普通(=迎合)」を目指すことには、致命的なデメリットが有ります。それはその行為、行動があらゆる局面に於いて「自らの(社会的)信条、信念、意思に基づくものではない」というもので、その行動原理は突き詰めれば「個人的な自由の獲得」以外の何ものでもなく、従って「結果に対して無責任」であることは言うまでも有りません。何故なら、誰しも「自らの価値判断」が働かない状態で、自身の行動に責任を負うことなど到底出来ないからです。つまり何が起ころうとも「俺のせいじゃないよ」ということです。

      このような人たちは、最後まで「罪の意識」を持てないまま「組織や国家ぐるみの罪」に加担した挙句、恨み言を言うハメに陥るかも知れません。

       

      このように「普通の人」の目指す自由とは「勝手気まま、好き放題、ヤリたい放題」など、社会の諸々から遮断されたプライベート環境のことなのかも知れませんが、もしそうであるならそうした「自由の獲得」を目的とした「社会的迎合」自体が「反社会的(=利己的)」本質を持つものと言え、それを「普通」と称し、そうした人たちの集まりによって「より良い社会」を築こうということそのものが、論理的に不可能と思えてなりません。(それを如実に表しているのが、学校教育の現場と言えるでしょう。)

       

      翻って本来意味するところの「自由」とは、決して社会と遮断されたプライベート空間に於ける「利己的満足を得る機会」のことではなく、例えば「自由闊達な意見を交わす」「アイデアを自由自在に展開させる」など、少なくとも「利他に対する利己」或いは「統制を逸脱した放縦」を表わす言葉ではないと言うことです。にも関わらず「自由」という言葉が、あたかも前述の様な「(我欲に関わる)自己満足の追求」として用いられるのは、一重に「社会が不幸」であることの証しと思われます。

       

      つまり「自分もみんなも良くなる、良くする」という基本思想と(社会的)目標のもとに、自らの能力を(制約無しに)遺憾なく発揮し得ることが、(理性に統制された)本来の「自由」の意味であって、理性を逸脱して「箍が緩み、ハメを外す」ことは、あくまでも「放縦」に過ぎず、それを敢えて奨励することは「潜在的な反社会性(=人間嫌い)」を助長する結果と成り兼ねません。

      昨今の(一見普通の人たち)による犯罪の凶悪化、取り分けその凶暴性、冷酷性、残忍性などは、そうした傾向が象徴的に表れたものと言えるでしょう。

       

      歴史的にも、自由と放縦が混同されて考えられ、見過ごされるといった様な時代はそうそう無く、増して(消費経済のもと)社会がそれを奨励、鼓舞し喧伝するなど、やはり異常事態としか思えませんし、放縦が人を破壊し、社会を破壊する事は間違い有りません。

      よって自分自身を破壊しないためにも「良い人」を目指すことを強くお勧めします。

      そうでなくとも、何れ「良い人」が普通と見做される時代が来ますので。

      | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 05:41 | comments(0) | - |
      神は「現行犯逮捕」する
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        正確には「神が人間を逮捕する」というのは正しい表現では有りませんが、あくまでも人間側の持つイメージからすると、そうなるという事で、実際には「神の定めた立法」に基づいたシステムの働きにより、100%整合性のある結果が示されることになります。

        その際、人間の目で「結果にばらつきがある」ように見えることがあったとしても、それは個々の人間が携えている何百という因縁の違いによって生ずる差異であって、それらを全て抱合した上で示される結果の正確さに於いては、凡そ「人智を超えた次元」であり、疑う余地も有りません。

        ですからその意味に於いては、そもそも私たち人間が「他人の結果を正確に理解する」ことは困難と言えますが、そうであれば尚更、本人が冷静になって、自らの身にもたらされた結果の意味を正しく理解することが是が非でも必要です。(そうしなければ明日は有りません。)

        つまり「結果をよく見て理解し、自らを立て直す」こと。それが人間が今すぐやるべきことです。

         

        ところで「現行犯逮捕」の意味するところは、文字通り「思っただけではやった事にならない」「疑わしいだけでは処罰の対象にならない」ということで、人間社会の現行法では当たり前の話で有り、考え方ですが、霊的には必ずしもそうとは言えません。むしろ「(悪い事は)思っただけでやったと同じ」というのが一般的です。何故なら霊的には「悪い思想は霊魂を確実に穢し、霊魂を穢す事こそが何よりも罪」とされるからです。

        そのため霊層段階が上がるに連れて、霊魂に対するある種の「保護回路」として、軽はずみな言動や思い違い、考え違いに対する「戒め」や「引き締め」が内部的に強化され、「気が重くなる」「胸が苦しくなる」などの結果が反射的にもたらされるようになります。それは謂わば「予備逮捕」とも言える現象で、それによって「本当の悪い結果」を未然に回避することが出来る訳です。

         

        しかし現状では、残念ながら保護回路が正常に働くほどの霊層段階に達している人の方が少数派と言わざるを得ず、多くの人たちが「現行犯逮捕」の対象となっています。つまり「目にもの見せられるまで気付かない」人たちということです。(中には「それでも気付かない」という人もだいぶ混じっています。)

        その人たちはまず、(因縁に基づいて)そのような人たちが集まる界隈に自然に引き寄せられます。そしてその中で「泳がされ」ます。その間に悪い因縁の濃密度を更に増すこととなり、そして遂には条件が整い、(自分自身に負けて)「犯行」に及び、そこで筋書き通りの「現行犯逮捕」となります。

        誤解の無いように言っておきますが、これは神がその結果を望んでいるということでは決して無く、抜けようと思えばいつでも、どの時点でも抜け出せる(回避出来る)のを、本人がそうしないだけの話だということです。

         

        話は変わりますが、昨今の世情から窺い知るに付き、「人間の堕落の温床は組織だ」とつくづく思います。人間は社会的な生きものですからして「組織に依存」するのは仕方がないと言ってしまえば身も蓋も有りませんが、それにしても「組織丸ごと堕ちて行く」というケースがあまりにも多く、逆に「個人」という単体としての価値の低さ、不甲斐なさに呆れ果てるばかりです。そういう人間に限って最後には泣き言を言うのでしょうが、今更救いようも有りません。(NHK職員諸氏、警告しましたので)

         

        どうせ通じないとは思いますが、そういう「組織命の人たち」の為に、これだけは言っておきます。

        神は組織(という容れ物)なんか実はどうでもよく、神が問題にしているのは常に「個人の価値」のみだということです。

        | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 08:51 | comments(0) | - |
        神は悪魔よりも恐ろしい
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          かつて文明が未発達だった頃、人間にとって最も恐ろしい存在は「神」であったに違い有りません。何故なら「天災」という言葉に表されるように、「噴火、地震、津波、洪水、嵐、干ばつ・・・」など、人々に壊滅的な被害をもたらす「天変地異」の類はみな、神の仕業と信じられていたからです。

          人々はそれらを「神の怒り(=天罰)」として認識し、神を怒らせないよう、注意深く生きる事を余儀なくされた訳ですが、それでも起きる時には「それを神が必要としている」ということで、せめて大難を小難で収めたいとの思いから「生け贄や人身御供」の風習が生まれたとも考えられます。

          つまり人々にとって「神」は、人智を超えた(理解不能な)未知の存在であると同時に、従うしかない「絶対的」な存在であったということで、言い換えればそれが(神によって与えられる)自然の恵みを享受して生きる人間の基本的スタンスと言えます。

           

          ところで何故人々は、そもそも自分たちの生きる糧となる「自然からの収穫物」を「神の恵み」と考えるに至ったのでしょう。おそらく、それら自然の恵みが取っても取っても一向に減る様子のない事に不思議を覚え、それこそ「減らないのは神によって供給されているからに違いない」或いは「こんなウマい話が有るのは神の仕業に違いない」と考えるのは(科学的知識がなければ)むしろ当然かも知れません。

          では科学的知識が有れば上記の話が否定されるのかと言うとそんなことはなく、むしろ逆で「いったい誰がここまでパーフェクトな自然の循環構造を作り得るのか」という次元の話になるだけで、本質的な不思議は変わりません。

           

          そこで問題は前述した「神は人智を超えた(理解不能な)未知の存在であると同時に、従うしかない絶対的な存在」という部分です。この理解があながち間違いと言えない証拠に、私たちは傲慢の限りを尽くす独裁者に対して「神にでもなったつもりか!」などと揶揄しますが、それは私たちが潜在的に持つ「神」のイメージそのものと言えるでしょう。つまり「神」は、人間に対してあらゆる意味に於いて「一方的」な存在である、ということがその認識の基本になくては、おそらく「神を見誤る」ことになるでしょう。(それに対して「悪魔」は明らかに「取り引き」の対象で、ただそれを無自覚に行っているに過ぎません。)

           

          取り分け西洋人は物事の関係性に於いて、契約や取り引き的なイメージ(give & take)を好む傾向が有るのかも知れません。しかし有史以来、古今東西「神と人との関係」がそうであった事など一瞬足りとも有りません。それが実相であり現実です。何故なら(人間の希望的観測をよそに)人間に比して神の能力が圧倒的に高いからです。そこはまさに「問答無用」の世界であり、同意を求める事すらも愚かしい限りで、増して「契約や取り引きの余地」など皆無です。

           

          「神」という計り知れない存在のイメージを、筆や言葉で端的に表わすことはほぼ困難に付き、却って誤解、曲解の元ともなるのでこれ以上の言及は差し控えることとしますが、ただ一つ言えることは「神は(見方によっては)悪魔よりも遥かに恐ろしい」ということです。何故なら、人間は「悪魔」から逃れることは出来ても、「神」から逃れることなど凡そ不可能だからです。(詳細はまた別の機会に。)

          | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 08:58 | comments(0) | - |
          85%は形骸化
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            前回のブログでも申し上げたように、この人間社会の健全な進歩、発展、維持にとって(今となっては)適切と言えなくなってしまった多くの「(人を含む)形在るもの」の内部的な「瓦解、崩壊」が急速に進行した結果、それらの「形骸化」が(霊的には)既に85%に達していると思われます。

            これは言い換えれば、私たちの社会に常に内在していた「明確な反社会的要因(=人、組織、思想、システム等)」の化けの皮が剥がれる、或いは剥がされる事に依って、その存在と意図とが「誰の目にも明らかにされつつある」ことを意味します。

             

            例えば、社会全体から見れば「たった一握りの反社会性を持った人々」によって構成され、存在し続けてきた「巨悪」と言えども、その存在を可能とする絶対条件は、何れも「正体がバレないこと」に尽きます。その鉄の結束と完璧な秘密主義が内部崩壊を起こし、ほぼ失われてしまった状態が現在ですから、当然存続は不可能となり、近い将来淘汰の憂き目を見ることは間違い有りません。

            これは「善悪」といった抽象的な概念を持ち出すまでもなく、より現実的な「社会性、反社会性」という具体的イメージで十分理解出来る話でしょう。

             

            昔から「悪いもの、怪しいもの」の喩えとして「叩けば埃が出る」というのが有りますが、昨今のそれは叩くまでもなく「押せばすぐに崩れる」ほどに形骸化が進んでいますから、その気になれば見誤る心配は有りません。

            こちらの身の安全を図るためにも、少しでも不審に思ったり不安を感じたりしたら「指で軽く押して見る」のが良いかも知れません。(正体はすぐに判明します。)

            より多くの人たちがそのような理解と心構えを持つことで、「形骸化した紛らわしいもの」は自然な形で社会から姿を消して行く事となるでしょう。

            | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 09:15 | comments(0) | - |
            屍の累々と居並ぶ世界!
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              これは近未来の世界の惨状を予言した言葉でしょうか?いいえ、そうではなく「見る人には見える現在の世界の惨状」を言い表しています。

               

              形あるものには全て「心」が在り、それは自然界に於いては「自然の摂理」であり、人間の創造物にあっては「動機、意欲、志、思い入れ、愛情」などといった「心のエネルギー」がそれぞれに相応しい形を形成し、維持する事で、この世のあらゆる「形あるもの」が成り立っていると考えられます。

              例えば人間に於いては「生きる意欲」が自らの肉体(という形)を保ち、そのために必要な生活(という形)を保とうとします。仮にそうした「意欲」が失われてしまったなら、早晩その「形」はこの世から消え失せてしまうに違い有りません。(他力による干渉を除きます。)

              つまり人間に於ける(本来的な意味での)「形」とは「心の具現化」ということになります。

               

              このことを逆に見れば「心の伴わない形は存在しないも同然」ということになります。(しばしば使われる「物事の形骸化」というのも同じ意味で、心の消失と形の消滅の時間差を物語っています。)

              ここで言う「心の消失、心が伴わない」とは、無論「形に対してふさわしくない心の変質、変容」も含まれることになります。何故なら、その時点で既に「心と形の相関関係」が完全に失われており、そのような「紛らわしい不自然なもの」の存在自体が不条理であり、この世に悪影響しか及ぼさないからです。

              しかし、人間界に於いては現実には「本来の存在意義(=心)が消失し形骸化したもの」が多々存在します。それらは「無意味な執着」や「意図的な悪意」によるものがほとんどで、そうしたものによって健全な社会の発展が阻まれているのが残念ながら世の常となっています。(因みに自然界では、(摂理に基づいて)存在意義を失ったものは(新たな存在意義を台頭させるため)逐次淘汰されます。)

               

              こうした観点で今の社会を見る時、改めて「累々と居並ぶ屍」の多さに驚かされます。それらが「横たわる、積み重なる」などの表現ではなく「居並ぶ」となるのには訳が有ります。「居並ぶ屍」とは「生きているつもりの屍たち」という意味であり、そのように理解することで、初めて今の社会の持つ「異常性」「危険性」を実感することが出来、また在るべき方向性を見出すことが出来るようになると思われます。

              巷ではよく「ダメな状態」に対して「死に体、レームダック」という表現を用いますが、これらは「まだ生きている」という意味になります。しかし時には「既に死んでいる(消滅している)」という認識を以って対処しなければ、物事に「見切りが付けられない」場合があるということです。

               

              私に言わせれば、言葉の価値を持たない「安倍政権」などはもはや「死に体」とは呼べないと思えますし、不祥事の続発する一連の企業なども「立て直し」が効く段階とは思えません。横一線の同じニュースしか流せない報道機関の存在意義もとっくに消失しています。このように理念や建前が「有名無実」となって久しいものは、既に「息絶えている」と見做す他なく、もしそれが廃墟化した建物であったなら、土地の有効利用のためにも早期の解体が望ましいのは言うまでも有りません。

               

              今まさに、私たちには「屍を乗り越えて進む気概」が求められています。

              | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 08:30 | comments(0) | - |
              「便利」と「危険」は常に表裏一体
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                歴史的に見ても「便利なもの」は全て(使い方を誤れば)「危険極まりないもの」に変貌するという経緯が有ります。

                 

                例えば「兵器」一つ取っても、元々は農耕や狩猟のための「便利なツール」として考案されたものを転用したのが始まりでしょうし、その意味では車両、船舶、航空機など近代戦の主役たちも、元々は人々の暮らし向きを向上させるためのアイデアを転用したに過ぎません。(核兵器も然りです。)

                また、現代の戦争に於いてはコンピューターが多用されていますが、これも典型的な「便利ツールの兵器利用」と言えるでしょう。

                このように私たちの暮らしを豊かにするはずの「便利なアイデア、テクノロジー、ツール」などは、それを利用する人の心次第で全て(人類にとって)「危険極まりない存在」と化してしまうことを、私たちは歴史的教訓からも再確認する必要が有ります。

                 

                しかし「兵器」であれば、そうした話もまだ解りやすいと言えます。世の中には、兵器よりももっと厄介で極めて危険な「ツール」が在ります。それは使い方を誤れば「極めて大きな破壊力」を持つものです。

                それは「お金」です。

                お金は元々、需要に対する供給(=物々交換)をより円滑に行なうための「便利ツール」として考案されたに違い有りません。それは「価値の経年劣化がない」「いつでもどこでも何とでも交換出来る」といった、物にはない特徴によって実現出来ました。(言い換えれば「物の不便さ」を克服するためのツールであった訳です。)

                ですから人々の暮らしぶりや経済感覚は従来のままであっても何ら問題無く、ただ取り引きの際にお金を介在させることで物々交換の際に生ずる「わずらわしさ」が軽減されるというだけで十分に便利であったはずです。

                 

                しかし案の定、事はそれだけでは済みませんでした。それは便利さの裏返しとしての「蓄財」と、手軽さの裏返しとしての「喪失」という現象に象徴されるように、お金が人々の経済感覚を一変させ、そのために人々の暮らしぶりまでがお金に左右されるようになってしまいました。

                こうしてお金は便利なツールである「脇役」であったはずが、いつの間にか人々の生活の中心を占める「主役」にまでのし上がってしまった訳です。

                ですから人々は簡単にお金に吊られ、お金に左右され、お金に振り回され、挙句はお金に支配されてしまうのも当然であって、更に不幸なことには「お金に麻痺させられた」結果、それらがおかしいことにも全く気付けないということのようです。(正確には「お金にされている」ではなく「お金を操る人たちにされている」ですが。)

                 

                このように「お金にもてあそばれない」ためにはどうすれば良いでしょうか。

                答えは簡単です。世の中の動向がどうであれ、現在のトレンドが何であれ関係なく、自らがお金を人生や生活の中心に位置付けるような愚を犯さずして、昔ながらの「物々交換の代用品としての便利ツール」とわきまえて置きさえすれば良いのです。(そもそも「消費を煽る」などというのが「資本主義」特有の如何わしさそのものです。当たり前の感覚であれば人間は必要なもの以外は要りません。)

                私たちは、お金は人を死に追いやり、一家を離散させ、国を滅ぼし、世界を荒廃させるとてつもない破壊力を持つ「兵器」として日夜使われている、ということを忘れてはなりません。

                | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 09:11 | comments(0) | - |
                「インチキ臭い」とはどういうことか
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                  今日のタイトルが「インチキとは」ではなく、敢えて「インチキ臭い」としたのには、それなりの理由が有ります。それは今の段階で具体的な事例を掲げて「これはインチキ」と一方的に明言し公言する事は時期尚早であり、それよりもむしろ私たち一人ひとりが「インチキの臭い」を嗅ぎとって、自らがそれを判断することの方がより重要と思われるからです。

                   

                  その上で話を進めますが、まず「インチキ(=嘘、偽、不正)」なものにはインチキ特有の臭いが有り、それは本物には決して無いものなので、その気になりさえすれば(インチキかどうかは)すぐに判明することが出来ます。ですから逆に見れば「インチキに騙され続ける」ということは、「本物を求める気持ちが乏しい(=インチキで構わない)」という内面の裏返しということになりますから、そのような人に「それはインチキですよ」と声を掛けても「余計なお世話」「有難迷惑」としか感じないでしょう。

                  つまり世の中には(無意識のレベルに於いて)「好んでインチキを求める人」もいるということです。

                   

                  それでは実際に「インチキの臭い」とはどういうものを指すのでしょう。

                  まず世間に於いて「(唐突感を伴った)繰り返し声高に熱弁される事(や物)」の大半は「インチキの臭い」がします。そこでは「性急」「強引」「一方的」「感情的」などの強迫的な特徴が見られ、物事の自然な推移を無視した「一大事、重大事、緊急性を煽る印象操作」によって、人々に対して沈着冷静な判断の猶予を与えません。(殆ど振り込め詐欺の特徴と重なりますが。)

                  つまり「ヒステリックなものほどインチキ臭い」ということで、本物は前述したような特徴を一切持たないものです。(地味なもの(や人)ほど信頼出来ます。)

                   

                  また、大げさなパフォーマンスや目立つキャンペーン、派手なコマーシャルなどは、総じて裏で何かを「隠蔽」したいがためのカモフラージュ、目くらまし、見せかけとして用いられることが往々にして有り、それぞれ実質的な価値に対して「大げさ過ぎる、目立ち過ぎる、派手過ぎる」ことが胡散臭さ(=インチキ臭さ)を醸し出しています。

                  昔ながらの「猫撫で声」や「うまい話」なども、本音を「隠蔽」するという意図に於いて、同様の胡散臭さが漂うものです。

                   

                  これら「インチキ臭さ」は、たとえその発信元がどこであろうと何であろうと変わりません。それは大企業や報道機関に限らず、例えばそれが日本政府によるものであろうが、国際機関によるものであろうがインチキ臭ければそれが「インチキ」である可能性は否定出来ません。何故なら、本物であればインチキ臭いはずが無いからです。(もし断定出来ないのなら、少なくとも注視しておく必要が有ります。)

                   

                  インチキに気付いて適確に対処出来るかどうかは「私たち個々の死活問題」に直結していることを忘れないでください。

                  | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 11:14 | comments(0) | - |
                  良い頭を何のために使うのか
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                    やれ「東大生(東大卒)」やら、医者、弁護士ら「インテリ」と称する連中がやたらともてはやされ、クイズ番組などで茶の間を賑わしている昨今のテレビ事情だが、もちろん国を動かす立場にある政治家や官僚に至っては、今更ながらその手の「高学歴連中」が大半を占めることになる。こうした世情を鑑みればまるで「そうであることがブランド(=信用、品質)の証し」のように思えるが、本当にそうだろうか。

                     

                    本来、人間の「品質」とは(人間が社会的存在であることの裏付けとして)その「清廉さ」や「志の気高さ」、実質的な「包容力の豊かさ」などとして表されるものであり、当然それら「資質として備わったもの」を具体化するために「仕事力(=実務的能力)」が求められることは解る。その意味では「高学歴やインテリジェンス」が「仕事力」の一部を担保する要素であることも理解できる。だからそうした備えを持つ事を否定はしないが、それは「有れば有るに越したことはない」という程度のもので、到底“金科玉条(=絶対的な拠り所)”などと考えるべき代物とは言えない。何故ならそれは他にも幾つも必要な「仕事力」を支えるツールの一つに過ぎないからだ。

                     

                    にも関わらず、社会ではそうした「高学歴系」の人たちがあたかも天下を取ったように振る舞う傾向があり、実際に社会はそうした人々によって支配されているかのように見える。インテリジェンスによって卓越した視野を有するから?インテリジェンスによって正確無比な分析力を有するから?・・・・・違う。エリート意識がもたらす「差別思想」によって、おぞましいほどの「権力欲」が働き、そのためには何でもするからだ。(たとえ人の道に背くことでも。)

                    これは決して想像で物を言っている訳ではなく(以前のブログにも書いた通り)私は実際に(建設現場での不正行為を見なかったことにした高学歴の)父親から、昔ながらの不正(=反社会的行為)の実態を聞いている。小心者であった父親でさえそうなのだから、肝の座った世のエリート連中がその百倍不正を行っているとしても何ら不思議ではない。

                     

                    要するに「頭がいい」とはそういうことで、おかげで私などは他人からそう言われると何だか「バカにされている」気さえする。何故なら「頭のいい輩」の大半は、その頭を「自己保身」と「野心を満たす」ためだけに使っており、自分もそんな風に見なされては適わないからだ。だから「いや、頭は良くないです。」と即座に否定する。

                    実際(状況把握を含む)殆どの物事の判断に「頭」など使わないし、必要ない。それこそ「心が有するバランス力」プラス「幾ばくかの経験値」で十分なのだ。第一、ムダに頭を使うことはエネルギーの浪費であって、そんなことではとても何十、何百とある課題を効率よく適確に処理するなど不可能だろう。(頭がパンクしてパニックになるのがオチだ。)

                    言い訳の上手い下手を別にするなら、高学歴やインテリと称する人たちの処理能力が概して高いとは決して思えない。事実、そういう人々の主導する社会の現状は課題が山積みされたまま惨憺たるものではないか。

                     

                    そろそろ「心のおぼつかない人々」は社会を主導するポジションから淘汰されるべき頃合いではなかろうか。

                    | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 08:28 | comments(0) | - |
                    何故、「教育の立て直し」が最重要課題なのか
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                      この問いの答えが今ほど解りやすい瞬間は無いだろう。何故なら「教育を誤るとこういう人間になってしまう」という、まるで「失敗作の見本」みたいな人たちが入れ替わり立ち替わり現れては、(懇切丁寧に)それを教えてくれているからだ。

                      それは「ナチスに学べ!」どころの話ではなく、まさしく「俺達に学べ!」と言わんばかりの「わかりやすさ全開」の人たちだ。その「アッパレ過ぎる言動」からは、「立派な反面教師として生を全うしよう」という高い志すら感じざるを得ない。(多分それは無いだろうが。)

                       

                      取り分け「安倍晋三、麻生太郎、菅義偉」の各氏に加え、最近では「小池百合子、前原誠司」らの活躍により、広く国民の間に「教育の誤りは国を滅ぼす」との認識がもたらされるに至った事は喜ばしい限りである。国民は「わずか一握りの間違った教育を施された人たちによって国家が崩壊し得る」という事実を知り得た訳だから、この功績は大きい。

                      また、類は類を呼ぶ訳だから、この人たちの周辺や後ろ盾となっている人々も、やはり「誤った教育を受けた人々」ということになるから、これも解りやすい。

                       

                      結論から言うと「今、世の中は非常に解りやすい状況にある」ということであって、これで解らないとなればそれは解らない人自身に問題が有ると言えよう。

                      それはともかくも「教育の誤り」は何も国政の場に限らず、そうした人々の立場に応じて社会のあらゆる単位のあらゆる部分でその健全な維持、発展を阻害し、それらが全体として「社会の衰退(=人々の分断)」という方向性をもたらしているのは明らかである。

                       

                      人々は肝心な事を忘れている。それは「本来、人と人は放っておいても結びつくもの」という認識のことだ。誰しも生まれ持った人間性が働けば必ずそうなる。(「まさか!」と思ったアナタ。それは絶望的なマインドコントロールによるものです。)

                      そもそも「社会の発展の礎(いしずえ)は人と人との結びつき」に他ならない訳だから、それを否定する教育など有り得ないことになるが、しかし現実には「社会に於ける人と人の結びつきの希薄化」が進行しているとなれば、日本では実質そのような(本来有るまじき)教育が行われてきたということだ。でもどうやって?

                       

                      その方法は簡単だ。ただ「勉強は自分のため、だから自分のために勉強しろ」と吹き込むだけで良い。この魔法のおまじないだけで、人は「競争社会」を受け入れると同時に自ら「人間性」を排除し、代わりに打算や狡猾さを取り入れることになる。

                      つまり能力の高い人は「力ずく」で打ち勝ち、能力の低い人は「他人を陥れて」自分が生き残るという寸法だが、もちろん「合わせ技」も有りだろう。

                       

                      そんなことだから「権力の座」に群がってくる輩にろくな人間がいないのは当然で、彼らは言い換えれば「人間性を捨てた人たち」であり、それ故「社会を破壊し、国を滅ぼす」ような発想しか持ち得ないと言える。

                      そうならないためには、それこそ教育現場で「人間性を失うことは人間(=社会的存在)として名乗る資格を失うことであって、学や知識は決してそれに代わるものではない」ぐらいのことが言えないとまずいだろうが、今の先生たちでは恥ずかしくて言えないかも知れない。

                      | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 10:29 | comments(0) | - |
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