青少年の何でも書き込み寺 (大人も可)

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「大人のことを助ける」という検索キーワード
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    このようなキーワードで当ブログにアクセスしてくれた人がいるようです。しかし、これ「エッ!?」という感じです。大人がこのキーワードで検索しないとも限りませんが、普通は子ども側の人かと思ってしまいます。真相は判りませんが、そのつもりで今日はこの件について子ども向けに書いて見たいと思います。

    ところで「子どもが大人のことを助けなければならない」とは、どういう事態でしょうか?お年寄りや病気の親兄弟など特殊なケースを除けば、一般的に子どもより大人の方が体力や知識が有るはずなので、もしかするとこれはメンタル(心の問題)に関することかなと思って見たりします。何故なら「子どもより大人の方が心が強いとは限らない」からです。

    例えば、子どもは親や近しい大人の顔色を気にしますし、実際良く判(わか)っています。子どもは当然「自立」していないので、親に異変(いへん)が起きると自分たちにも影響が及んで大問題となるからです。
    特に親に「悩み事」があってイライラしている程度であればまだ良い方ですが、それが元で落ち込んだり、ふさぎ込んだり、または周囲に当り散らしたりするようになり、日常生活や子どもの世話などに支障をきたすようになったりすれば、これは大変なことです。
    このような状況にあって、子どもが「大人のことを助ける」ことを考えているとすれば、これはまことに「不幸」なことと言わざるを得ません。また、物事が最も悪い方向に向かって行けば「親子共々」身の危険も考えなくてはならなくなるので、どちらにしても早めの対応が必要だと思います。

    普通の場合、大人は多少の苦労があっても「子どもの元気な顔を見ただけで、それが励(はげ)みとなり、やる気が沸(わ)いてくる」ものです。それがそうならないで悪い方に向かって行くのであれば、それは「異常なこと」だと思った方が良いでしょう。その原因が必ずしも「親の心の弱さ」とは限らず、「世の中の仕組みに行き届かない部分が有る」としても、その時点で子どもの側から出来ることは余りたくさんは無いと思います。そしてもし「手助けがしたい」と思うなら、その気持ちを自分が大人になるまでの間、大切に育てて欲しいと思います。そして大人になって自分の親を助けるのはもちろん、他にも困っている人を助けたり、人の役に立てる人になってもらえたら、それはどんなにすばらしいことでしょう。

    では、「子どもたちに今すぐ出来ること」は何でしょうか。それは、困っていること、心配していることや気持ちを「助けてくれそうな人に伝える」ことです。身近に心当たりがあればそれが一番良いのですが、納得(なっとく)出来るまでいろいろ当たってみる必要があるかも知れません。もちろん「当ブログのコメント欄」に書き込んでも構いません。ここは「青少年の何でも書き込み寺」ですので。
    | 青少年の味方の人 | 大人になるための大事なこと | 11:18 | comments(0) | - |
    「仕組み」を悪用してはいけません。
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      人が使う道具や機械には必ず「仕組み」があります。例えばテコの仕組みや回転する仕組み、伝達する仕組みなど、人間に便利さをもたらすための仕組みです。
      それと同じように「社会」にも「仕組み」があります。それは社会がより便利で快適なものであると同時に、安全で安心出来るものであるために、長い時間をかけて考え出されてきたものです。
      例えば「民主主義」も社会の仕組みのひとつで、その中には更にそれを実現させるための「議会制」や「選挙制」といった仕組みがあるでしょう。また「国家を維持、運営する方法」としての「司法、立法、行政の三権分立」や「政治と宗教を一体化しない」ための「政教分離」などの仕組みは、過去の経験などから「社会の安全性を高める」ための仕組みと考えられます。
      要するに「仕組み」というものは、本来私たちの「快適と安心」のために提供されているものとして間違い有りません。

      しかし、私たちはそのような仕組みの「本来の役割」の話だけを聞いて納得している訳には行かないのです。何故なら、ほとんどあらゆる仕組みは「悪用」することが可能だからです。
      例えば、人間は「火を起こし、石器(=刃物)を使うようになって、著しい進化を遂げた」と言われて来たように、マッチやライター、包丁や鋏(はさみ)は、未だに生活に欠かせない物ですが、常に危険と隣り合わせの側面があることも事実です。どれも使い方次第では人を容易に殺傷する事が出来るからです。しかも皮肉な事に、優秀な道具であればあるほどその危険性も高まる傾向にあります。つまり私たちは、それを承知で「正しい教育による正しい理解」のもとに道具を使っているのです。

      ところで「民主主義」には基本的に「多数決の原理」に基づいて「物事を決定する」仕組みが取り入れられていますが、そこには「多数決の横暴」という、包丁に例えれば「人を殺傷できる」という側面があります。
      しかし「民主主義」は私たちの「快適、安心」の根幹で有りながら、そのための「正しい教育」を何時受けて、そのための「正しい理解」が何時なされたのか記憶に有りません。そのために「多数決が人を殺傷するために使われる」という感覚を持つことが出来ず、「多数決だからしょうがない」といったように「多数決の暴力」を見過ごしてしまう傾向にあるのです。
      ですから今後しばらくは「多数決だから大丈夫」というような考え方は「身を滅ぼす危険思想」とでも思って、倉庫に鍵を掛けてしまっておいた方が良いと思います。

      私が知る限り、「民主主義の名の下に多数決を暴力として悪用」する事は簡単です。
      まず、わざと貧富の格差を作ります。なるべくゆっくり、じわじわと目立たないように、確実に作ります。
      それが出来たら今度は適当な時期に、「これではいけない、何とかしよう」と声を上げます。
      多くの人は「この人は自分たちの味方だ」と思うことでしょう。
      思い方の足りない人には更に金銭的な援助を申し出ます。生活に困窮しているので、僅かな金額で心が動くでしょう。
      そこで「選挙」をすれば、この人は確実に支持され「当選」するでしょう。

      この中には倫理的な誤りや不正、法律違反が多々ありますが、地味に名目上それとわからないようにする方法はいくらでも有りますので、かなり確実な方法だと思います。また、みんなが豊かで不満がなければ、手ごろな金額で「買収」すること自体が難しいので、先に「みんなをしっかり困らせておく」ことがポイントとなるでしょう。

      みなさんは、決してこんな底意地の悪い人になってはいけません。ただ、どうして正しいはずの「民主主義」や「多数決」が悪い結果をもたらすのかという「可能性」を知ることが、それを防ぐ手立てにつながると思います。
      また、本当の意味では「独裁的」であろうが「民主的」であろうが、それ自体の「善悪」や「優劣」は有りません。何故なら「常に民衆の声を良く聞いて政治に生かそう」と考える独裁者であれば、何ら問題は無く、反対に「常に民衆を騙(だま)し、民意を操(あやつ)って自分たちの思い通りの政治をしよう」と企(たくら)む民主政権だってあるのです。

      つまり物事の結果は「仕組み」によって決まるのではなく、「心」によって決まるのです。
      | 青少年の味方の人 | 大人になるための大事なこと | 10:42 | comments(0) | - |
      人の心は単純明快だ。
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        自分事を含めて物事、取り分け人の心、思い、気持ちを「複雑なもの」と考えても良い結果は得られません。何故かというと、元々「単純明快」なものだからです。
        考えても見てください。人間の心がそんなに複雑に出来ていたら、生きること自体が、まるで初めから難易度超A級のパズルのようなもので、一体誰が、そして何人の人がまともな人生を送れるというのでしょう?おそらくそのようなゲームをクリア出来るほんの一握りの「頭の良い人たち」に過ぎないでしょう。しかもそれでは「生きる目的」そのものが「パズルの攻略」そのものにしかなり得ませんし、こんなバカな話は有りません。第一それでは多くの人間は落胆して子孫も残せず人口は減り続け、人類はとっくの昔に滅んでいてもおかしく有りません。

        生きることが難(むずか)しいと考える時に、必ず思うのは「どうしていいかわからない」ということです。
        何故「わからない」のかと言えば「自分のこと」と「ひと(=他人)のこと」がわからないからで、もっと言えば「自分の心」と「他人の心」が解(わか)らないので「何をどうすることも出来ない」という事だと思います。
        そうなると少なくとも安心、安全の元となる「信頼できる人間関係」が構築(こうちく)出来なくなり、それは社会の中での「孤立(=ひとりぼっち)」を意味します。しかも「孤立」した自分は「自分のことがチンプンカンプンで何もわからない」というのであれば、生きる事に何の希望も持てなくなるのはむしろ当り前のことだと思います。

        みなさんはこれまでの話のどこに「落とし穴」があるのか、解りますか?それは「自分のこと、自分の心がわからない」という部分です。これは明らかな勘違いで、自分の心を「複雑なもの」と考えている証拠ですが、最初に言ったように、「人の心は単純明快なもの」なのですから、本当はそこさえ勘違いしなければ「どうしていいかわからなくなったり」しないものなのです。その理由は「自分のことが解った分だけ人のことが必ず解る」ような仕組みになっているからです。それは例えば、自分の身長が何センチ有るか知っていれば、相手の身長も見ればだいたい予想が付くようなものです。

        例えば、あなたの友だちの「Aさん」と「Bさん」がいたとします。
        ところが困った事に、この2人は今、仲が悪くなっていますが、あなたはその事と関係が有りません。
        そんな時、最初にAさんから「今度の日曜日に遊びに行こう」と誘われてOKしました。
        しかし、その後Bさんからも「今度の日曜日に遊びに行こう」と誘われました。
        あなたは正直なところ「Bさんの案の方が楽しそうだ」と思いましたが、もしAさんの誘いを断って後でBさんと行ったことがバレたらと思うと、そうもいきません。
        さあ、あなたはどうしますか?

        上の話は例え話ですが、人によってはとても複雑なことのように思えて、また自分の心も(AさんとBさんの間で)複雑に揺れ動いてなかなか決められない事のように思えるかも知れません。
        しかしそれは「八方美人」つまり「誰からも悪く思われないようにするのはむずかしい」と思っているだけで、それさえなければ話は簡単なのです。
        例えば「つまらない事でいがみ合っているAさんもBさんも良くない」と思うなら、二人に対してこの際「関係の改善」を求めても良いと思います。自分も迷惑をこうむっている者のひとりとして、その権利が有ると考えても間違いではないでしょう。
        また、物事の筋を通すのなら「先に約束したAさん」と、堂々と遊びに行けば良いのです。それを理由に断られて、Bさんが必要以上に感情的になったとしても、解ろうとしないBさんが悪いのです。
        ただ正直言って「Bさんとの方が楽しそうだ」という理由で「先約のAさんをキャンセル」というのはお勧め出来ません。何故なら「自己中心的行動」でAさんとの間に「亀裂を作る」のは目に見えています。本当にそれが自分のためになると思うなら、それもアリかも知れませんが。

        つまり、このような問題は「八方美人」になろうとさえしなければ、「全くむずかしくない」ということが解ります。「八方美人」というのは大変ズルイ生き方と言えます。それは誰に対しても「表面的に悪く思わせない」ための算段(=計算)の積み重ねに過ぎず、心の奥底にあるのは「自分を守る」ことだけで、そのためには(正確な意味においては)他人の気持ちを裏切っているようなことも、しばしば有ります。隠していてもそれはいずれ人の知るところとなるので、大変に損をする生き方と言えます。
        ところで「八方美人」の人は、自分でもズルさを意識したくないので、自分に対しても言い訳や弁解をしますが、その時点で自分の心を「とても複雑なもの」と感じることが良く有り、「自己中心」の人は大なり小なりその傾向があると思って良いでしょう。何故なら「オレは醜い(みにくい)」「ワタシは穢い(きたない)」と誰が大見得(おおみえ)切って言えるでしょうか。

        肝心なことは、いつも単純明快で「信じられる自分」を持つことです。そうすれば多少の誤解や曲解を恐れることなく、その先に有る相手の心も「信じられる」ようになります。そうです。その時点であなたはもう「孤独」では有りません。
        | 青少年の味方の人 | 大人になるための大事なこと | 10:56 | comments(0) | - |
        「人権」のお話
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          といっても、憲法や法律を紐解いてどうこうしようという主旨では有りません。もっと単純で簡単な、生きる上でのイメージとして「人権」をどう考えるかという話です。(子ども向けとしては少し読みにくいかも知れません。)

          その場に複数の人間がいれば、それはすでに「社会」であって、社会には家庭、地域、学校、職場から国、そして国同士の集う国際社会まで、様々な規模や形が在ると思いますが、その基本はすべて「人間関係」すなわち「人の思いや都合の集まり」です。

          このような「人の集まり」が健全、すなわち誰もが有意義で快適と感じ、持続性に期待出来るものであると感じるためには、誰もが平等に扱われるための「基本的な権利」が認められ、保障されていなければなりません。(それが認められない状態を「差別」と言います。)

          なぜわざわざ「基本的な」という言葉が必要かというと、社会というのは「一つの枠組みの中身」のことなので、その形を維持するためには、基本的にその中にあるもので賄(まかな)わなければならず、それは限りあるものなので、通常の営みとして消費したり消耗したりする分を様々な形で補充して行かなければなりません。
          それは枠組みの中で物を生産したり、或いは外からお金や物を持ち寄ったりと方法は様々ですが、何れも社会を維持、発展させて行くために必要なことです。(家庭もそのような方法で維持されています。)
          このことは、考えようによっては「その社会に参加するための条件(=義務)」と見なすことも出来ますので、その場合には「権利と義務」は一体のものとして扱われることになるでしょう。
          しかし「権利」を何もかも「義務」と絡めて考えようとすると、必ず問題が生じます。そのためには「基本的な権利」という考え方がどうしても必要なのです。

          例えば、人の能力には「個人差」が有り、みんなが同じ働きが出来るとは限りません。つまり、背の高い人は高い棚のものが簡単に取れますが、背の低い人にはその都度踏み台が必要になる、というようなことです。もっと言えば、子どもは未成熟で大人より義務を果たす能力が低いので、その分「権利」を制限されて良いという話にすら成りかねません。
          このように「能力の評価」と「権利」の話が混同されて、それが普通の話としてまかり通るとすれば大問題です。

          初めに「社会は人の思いや都合の集まり」と書きましたが、ある目的のために最初から「評価と権利は比例する」ことを前提とした「任意の集まり」であれば、それも良いでしょうが、家庭も、義務教育の小中学校も、ましてや国だって私たちは任意で参加しているわけでは有りません。このように自由意思で選べない状況で「不当な評価」のもとに「権利」を脅(おびや)かされるほど理不尽(りふじん)な話は有りません。では「正当な評価」はあるのかと言えば、そんなものは有りません。なぜなら初めから「評価によって差別しない」ことが前提だからです。

          そこで、人によって違う「能力の差」をどのように考えるか、またどのように生かして行くかということですが、例えばAという人の力を10とします。また、Bという人の力を5とします。Cという人は3です。ということはABCの参加する社会の力が18ということですが、これはAという人の力の2倍近く有りますが、それはABCが平等公平に受ける恩恵です。なぜならABCの間にある差は「努力の差」ではなく「能力の差」に過ぎないからです。これで話は終わりです。
          因みに、ここで文句の出る人は社会に参加する資格を満たしていない人です。また、社会という仕組みを理解していない人です。と私は思います。

          このような社会にはおのずと人が集まるでしょう。またみんなが自分の力を少しでもアップさせたいと願うに違い有りません。なぜなら、この社会が自分たちにとって有意義で快適であって持続させたいと望むに違いないからです。
          社会において互いに「人権を認め合う」とはそういうことなのです。

          では最後に、「他人の人権を貶(おとし)めるような差別的な考え方の人の人権は剥奪(はくだつ)しても良いのか」という話ですが、答えは「ノー」です。その人の人権も保護されなければなりません。
          何故かと言うと、そこには差別の元となる思想や考え方の違いはあっても、「差別しても良い」という大元(おおもと)の部分では同じ過ちとなる可能性が高いからです。すなわち、そのような人の出る幕のない社会であればそれがベストではないでしょうか。
           
          | 青少年の味方の人 | 大人になるための大事なこと | 11:51 | comments(0) | - |
          「価値観の共有」について
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            先のブログで「一人ひとり価値観が違っていて良い」と書きました。でも不思議に思いませんでしたか?「社会というものは常にみんなで力を合わせて良くして行くもののはずなのに、価値観がバラバラでやっていけるの?」という素朴な疑問です。では現実はどうでしょう。

            例えば「男子と女子」では価値観(好きなもの、やりたいことなど)が全然違っていたりしますが、だからといって「一緒に何かをする」ということが全くできないとは普通考えません。増して「価値観が違うから嫌いだ」とはなりませんし、むしろその逆で「だから好き」になったりもします。(そんな経験有りませんか?)

            つまり「価値観が同じ」ということは、お互いに「競い合う」ことができるという意味を持ち、反対に「価値観が違う」ということは、足りないところをお互いに「補(おぎな)い合う」ことができるという意味を成していて、どちらも大切な関係であることに変わりは有りません。

            特に「価値観が違う」という理由で「関わることや理解すること」を面倒くさがって敬遠したりしていると、だんだん自分自身が偏(かたよ)った考え方しかできなくなったり、バランスの良くない感性しか持てなくなったりと、かえって社会の中で自分が生きにくくなっていったりしますので、やはり価値観の違いによらず、どんな人とでも関われるようにした方が良いでしょう。

            ところで人間が(例えば)100個の価値観を持っていたとして、その内の99個はお互いに違っていても、ひとつだけ「同じ価値観の方が良い」と思われるものがあります。それは「みんなで良くなろう」というものです。これが同じでありさえすれば極端(きょくたん)な話、あとの全てが「てんでバラバラ」であってもその関係はきっとうまく行きます。(もちろん多少の努力は必要ですが。)

            とにかく色々違って当り前、むしろ「色々な違いを楽しもう」という気持ちがあれば、社会生活がより楽しくなります。
            | 青少年の味方の人 | 大人になるための大事なこと | 12:07 | comments(0) | - |
            「カッコいい」とはどういうこと? その2
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              「カッコいい」とは「自分が大きな価値を感じている部分に対して高い能力を示すこと」だと思います。それが他人や物であれば「憧(あこが)れ」を感じるでしょうし、自分がそうであれば「自己満足」の要因となり得るでしょう。

              ここでは一般的に「らしさ」というのがひとつの目安になりそうです。例えば漠然と「男らしい」「女らしい」という場合、それぞれに男性、または女性として必要とされるもの(=素質、能力)を充分満たしているという意味で用いられますが、それは言い換えれば男としてカッコいい、女としてカッコいいということだと思います。更に「らしさ」を突き抜けて一段と高い評価を受けた場合の「サイコー」も最高にカッコいいという意味で、「素質、能力がズバ抜けている」ことを示しています。

              しかし、そうなると生まれつき素質に恵まれた人たちや能力が高めの人たちだけが「カッコよく」なれて、あとの人たちはそれを羨(うらや)ましがりながら「カッコわるく」生きていくしかないということになります。本当にそういうものなのでしょうか?

               

              実は一口に「カッコいい」と言っても、何に対してそう思うかは人によって全然違いますし、違っていて良いのだということです。

              例えばメカ好きの人から見れば究極のメカとも言える最新鋭のジェット戦闘機も戦車も原子力空母も「カッコいい」と感じたりしますが、メカに全く興味が無く、戦争はイヤだという人にとっては「どこがカッコいいのかさっぱりわからない」ということです。

              また、一般的にスポーツに関心を持つのは良いこととされていても、やはり運動が苦手でスポーツに余り興味のない人にとっては、たとえオリンピック選手であっても(仮にすごい事とは思えても)「カッコいい」とは思えず、憧れの対象とはなりません。

              このように「カッコよさ」は一人ひとりの持つ価値観ごとに違っていて当然で、逆に世の中には色々な価値観がないと困るのです。何故ならみんながケーキ屋さん(=パティシエ)になりたがったら他の仕事をしてくれる人がいなくなってしまうでしょう。

              つまり人間一人ひとり目指すものが違うということは、すでに一人ひとりの価値観が違っていて、それによって多様で便利な社会が作られて行くわけですから、その部分を無理に共有しようと思う必要は全く有りません。(そんなことをするから他人と比べて落ち込む人が出てきたりするのです。)

               

              さて、ところで当初の目的である「他人に認めてもらいたいのでカッコよくなりたい」ということですが、そもそも価値観が人それぞれに違っていて良いということになれば、結局「カッコいいの悪いの」とは、他人と比べたり競争したりしてどうこうするものではないということです。仮に「カッコよさ」を他人と競い合って満足したり落ち込んだりしていることがあるとすれば、それは「カッコよくなるため」ではなくて、単純に「勝負で勝ちたい」だけのことであって「目的」が違っています。あくまで「カッコいい」とは個性としての魅力を発揮することであって、他人と同じ土俵で勝負することではありません。

              前にも言った通り、社会(=人)は様々な個性を必要としています。それは言うなれば若者には若者の良さ、年寄りには年寄りの良さ、スポーツマンの良さ、勉強家の良さ、活発な良さ、落ち着いた良さ、大ざっぱな良さ、細かな良さ・・・とにかくそれぞれに「カッコよさ」があります。肝心なことは、今の自分に一番合った良さを見つけて思う存分発揮することではないでしょうか。(くれぐれも流行に心を奪われないように。)

              | 青少年の味方の人 | 大人になるための大事なこと | 11:45 | comments(0) | - |
              「カッコいい」とはどういうこと? その1
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                ある程度の年頃になると子どもたちは自分の「カッコ(=恰好)」を気にするようになります。だいたい女の子の方が、男の子よりも少し早目に気にし出すようです。初めは服装や髪型といったおしゃれから、文具やバッグ、小物といった持ち物、それから態度や物腰や会話に至るまで「カッコよくなりたい」と思うわけですが、それはもしかすると「他人に認めてもらいたい」という気持ちの表れかも知れません。

                一方で学校教育の場でも「カッコイイ一年生」などのように、子どもたちにカッコよくなることを目指してもらおうという取り組みがあると思いますが、こちらの場合は主(おも)に「決められたルールやマナーを守る」とか「自分のことが自分で出来る」など、社会人として成長することが「カッコいい」という考え方であって、それはそれで大切なことですが、子どもたちが「それをするだけでカッコよくなれる」と思っているかというと、もちろんそんなことは有りません。(むしろある時期の「型破りがカッコいい」などという感覚から見れば「カッコわるい」と感じる子どもだってもしかするといるかも知れません。)

                どちらにしろ大事なことは「カッコよくなることが自分のためになる」ということだと思います。また「他人が認めてくれる」ということは、「自分がカッコよくなればそれが他人のためにもなる」ということなのでしょうか?(ふつうはそこまで考えたりしませんが。)
                そこで改めて「カッコいい」とはどういうことで、「カッコよくなる」ためにはどうすれば良いのかをみんなで考えて見たいと思います。次回に続きます。
                | 青少年の味方の人 | 大人になるための大事なこと | 09:34 | comments(0) | - |
                「相手の身」になれますか?
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                  よく「相手の身になって物を考えよう」と言われます。「相手の身になんてなれるわけない」と返されてはそれこそ身も蓋(ふた)も有りませんが、確かに自分は相手に成り代われる訳ではないので、これは「相手の気持ちを想像して見よう」という意味に受け取っても良いかも知れません。それも出来ればなるべくたくさん想像して見るのが良いと思います。

                  例えば「自分が言われたくない、されたくない事は相手も言われたくないしされたくない」だろうし、その逆に「自分がうれしい事は、相手にとってもうれしい事」でしょうから、相手といる時はいつも(自分が言いたいことを言う前、やりたいことをする前に)「相手は聞いてどう思うだろう、されてどう感じるだろう、と想像して見てください」ということです。

                  でも何のためにそうすることが必要なのでしょう?それは自分が毎日を楽しく安心して暮らして行けるようにするためです。
                  それはつまりこういうことです。人は誰にも何もされないのに一人で勝手に腹を立てたり悲しくなったり恨んだり憎んだりはしないもので、ふつうは「誰かの言葉や行い」に対してそのような気持ちが起きてしまうものと考えて良いでしょう。それをその場でいきなり相手にぶつければトラブルとなって関係が悪くなりますが、もし相手が気持ちを押し殺して黙っていたとしても結果は同じで、場合によってはその場でケンカになるよりも余計に悪い雰囲気(ふんいき)になることも有るでしょう。

                  人間はもともと自分で好き勝手に安心したり楽しくなったり出来るものではなく、それはやはり周(まわ)りの人たちとの関係によって大きく左右されてしまうものなのです。言い換えればそれは周りのみんなとの協力関係や信頼関係によって作られて行くものなので、その関係が悪くなれば結局自分が不安で楽しくなくなってしまうのです。そんな毎日は誰だってイヤですよネ。

                  つまり「相手の身になって物を考える」とは相手との協力関係、信頼関係を大事にしたいという気持ちの表れなのです。
                  | 青少年の味方の人 | 大人になるための大事なこと | 08:25 | comments(0) | - |
                  「みんなで生きる」という正しいイメージとは
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                    これは「人間社会」を見ても、今ひとつ釈然(しゃくぜん)としません。それは色々な人の色々な思惑が複雑に絡み合って、見た目を複雑にしているからです。ですから私たちは、この事を「自然界」から学ぶことにしようと思います。

                    日本は周りを海に囲まれた島国ですが、その陸地部分はおおきく分けて「山と平地」から出来ています。双方共に豊かな自然が保たれていますが、その役割はそれぞれ少し違っています。つまり人間や多くの動植物にとって、より暮らしやすいのは「平地」ですが、平地を適切な環境に保つためには、「山」の環境が適切に保たれている必要があるということです。
                    この事は「社会に於ける支える者と支えられる者」の関係を私たちに教えてくれています。
                    しかしその「山」でさえ、実は絶え間ないメンテナンス(=保守・修復作業)のおかげで「山」で在り続けることが出来ているのです。それは(その事に適した)様々な動植物が担当していますが、彼ら自身もまた、山を快適な生息場所として、山の恩恵を多大に被(こうむ)っている訳です。

                    山は元々、火山活動や地殻変動、土地の隆起などによって出来たものですが、当初は岩石や土砂の巨大な塊(かたまり)に過ぎず、そのままでは山として十分な機能を備えているとは言えません。また、むき出しの地表は雨風の侵食を受けやすく、それでは山自体も不安定な状態のままです。
                    しかし幸いな事には、どんな荒地でもしばらく経つと草が生えてきます。それらの殆どは一年草の雑草の類(たぐい)に過ぎませんが、生命力が強く、条件を選ばないため、比較的短期間で山肌を覆い尽くすほどに繁殖します。それらが枯れると微細な虫やバクテリア、細菌類の働きにより分解され、枯れた植物はやがて有機物を多く含んだ肥沃(ひよく)な土に姿を変えます。それを何世代も繰り返す間に、山肌全体が次第に肥沃な土で覆われて行き、今度は雑草よりも丈の高い中型の植物の生育に適した環境が整えられて行く事になります。

                    しばらくの間は雑草と中型植物が平行して生育する環境によって、山肌の安定化、肥沃化が加速され、同時に小動物の成育環境も整えられて行く事となります。しかし、山の完成形の主役は、あくまで大型の針葉樹や広葉樹であり、暫(しば)しその登場を待つ事になります。
                    やがて山土が十分に堆積(たいせき)し、周辺の中低木によって適度な日照と風水害からの保護環境が得られる様になると、大型の樹木が発芽、生育するようになります。
                    更に樹木が枝を張り、高さを誇るまでに成長して行くと共に、根元付近の日照は極端に遮(さえぎ)られる様になり、同時にこれまで山の環境作りに欠かせなかった下草や中低木はその役割を終え、急速に姿を消して行きます。それに替わってもっぱら日陰での生育に適した低木類やコケ、シダ類などが山の保全の一役を担う事となります。また、大型動物や野鳥の生育環境も整って行きます。

                    このようにして形成された森林によって、山は豊かな水源としての本来の機能を持つに至り、そこここより湧き出す泉が沢となって特徴的な生態系を作り出し、そこに至ってようやく私たちは山の完成形を見ることが出来る訳です。

                    さて、長々と禿(はげ)山が豊かな森林を形成するに至る経過を説明して来ましたが、いったい何のためでしょうか?
                    ここで私が一番注目したい事は、「主役は常に入れ替わるもの」ということです。つまり最初は「雑草」から始まって「低木」から「高木」というように、順番に主役を引き継いで行かない限り、山の完成を見ることは出来ないという事です。
                    次に注目したい事は、「主役だけでは決して物事は成し得ない」ということです。如何に将来の大木と言えども、若芽のうちから一本立ちは不可能です。周りの低木や下草に風雪から守ってもらえなければ、その生存率は極端に低くなるでしょう。
                    最後に思う事は、「誰しも役割は永遠とは限らない」ということです。最初の立役者だった下草は、森林の形成と同時に姿を消して行きますが、「森林は下草の働きがなければこの世に存在すら出来ない」という事実は永遠に変わりません。これは人間も同じで、今の世代が果たすべきことを果たさなければ、次の世代はこの世に存在すら出来ない」ということです。
                    このようなことに思いを馳せて見ると、生きるとは「より良い何かを手に入れる」というイメージよりも「どれだけうまく繋(つな)げられるか」というイメージに近いのではないかと思えてくる訳です。何故なら命には限りがあるので、いくら手に入れても「どこへ持って行ける」訳では有りませんが、うまく繋げようとするだけなら、そのような心配をしなくて済むからです。

                    みなさん、下草は山から消えていく時、どういう気持ちだったと思いますか?私は多分それが「みんなで生きる」というイメージの答えだと思います。

                    | 青少年の味方の人 | 大人になるための大事なこと | 15:40 | comments(0) | - |
                    言うは言わぬなり。言わぬは動作が言うなり。
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                      これは、いくら言葉で良いことを並べ立てて見ても、行動がそれと違えばその人は「良い人ではない」という当たり前の事を言っています。また、いつも押し黙っていて周囲と関わろうとしないように見えたとしても、みんなのためになることを黙々と行っている人は「みんなとしっかり関わっている人」だという意味でもあります。つまり「人の言葉には元々大した意味は無く、行いこそがその人の本当の姿である」ということです。

                      よくコミュニケーションが大事とか、お互いの意思の疎通が大切とか言われますが、それらを「言葉でするもの」と思っているとすれば、それは正しくありません。それらは「基本的に行いを以って為すもの」です。言葉はあくまで「行いを補足するもの」であって「主役は行い」ですから、行いが存在しないところに言葉だけあっても、ほとんど何の意味も有りません
                      例えば、「本日10時からみんなでコミュニケーションを深めるための話し合いをします。」となっている時に、集合時間に遅れたとすれば、その人は「みんなのことをイイ加減に考えている人」と見なされる可能性があります。何故ならこの場合「遅刻する」という行いが主役となり、その後の言い訳は「その行為を補足する働き」となり、「その行為を打ち消す意味」にはならないからです。
                      つまり「遅刻に対する言い訳=素直じゃない、不真面目だ」ということにしかなりません。

                      それでは、見かけ上「良い行い」さえ持てればそれがその人の本当の姿かというと、そうとも言えません。何故なら「心と行い」が一致していない「心を偽った行い」も有り得るからです。例えばブツブツ文句を言いながらも「やれと言われるからやっている」状態では、その人は「良い行い」をしているのではなくて「いやいややっているという行い」をしていることになります。それは「悪い行い」としてカウントされます。何故なら「面白くない気持ちや恩着せがましい気持ち」が他人に伝わることによって、人の気持ちを圧迫することになるからです。また、自分自身も鬱憤(うっぷん)が溜まって、心身に悪影響を及ぼします。
                      このようなことから、「良い行い」というものは「良い心」が前提にないと成り立たないことが解ります。

                      ここまで「言葉よりも、まずは行い」という主旨で話を進めてきましたが、言葉であっても「行いと同等の意味」を持ち得る場合が有ります。
                      それは「みんなが言いたくても言い辛いと思っていること」「意思表示に困難を伴うこと」など、言葉すること自体に勇気を必要とすることを、思い切って言うことです。そこには「自らの態度を表明する」「自らの責任を果たす」というれっきとした行いがあります。つまりこれは「言葉に補足された行い」なのです。

                      皆さん、言葉は「他人や自分を欺(あざむ)くためのツール」では有りません。決してそういう使い方をしないようにしましょう。
                      | 青少年の味方の人 | 大人になるための大事なこと | 10:07 | comments(0) | - |
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