自分事を含めて物事、取り分け人の心、思い、気持ちを「複雑なもの」と考えても良い結果は得られません。何故かというと、元々「単純明快」なものだからです。
考えても見てください。人間の心がそんなに複雑に出来ていたら、生きること自体が、まるで初めから難易度超A級のパズルのようなもので、一体誰が、そして何人の人がまともな人生を送れるというのでしょう?おそらくそのようなゲームをクリア出来るほんの一握りの「頭の良い人たち」に過ぎないでしょう。しかもそれでは「生きる目的」そのものが「パズルの攻略」そのものにしかなり得ませんし、こんなバカな話は有りません。第一それでは多くの人間は落胆して子孫も残せず人口は減り続け、人類はとっくの昔に滅んでいてもおかしく有りません。
生きることが難(むずか)しいと考える時に、必ず思うのは「どうしていいかわからない」ということです。
何故「わからない」のかと言えば「自分のこと」と「ひと(=他人)のこと」がわからないからで、もっと言えば「自分の心」と「他人の心」が解(わか)らないので「何をどうすることも出来ない」という事だと思います。
そうなると少なくとも安心、安全の元となる「信頼できる人間関係」が構築(こうちく)出来なくなり、それは社会の中での「孤立(=ひとりぼっち)」を意味します。しかも「孤立」した自分は「自分のことがチンプンカンプンで何もわからない」というのであれば、生きる事に何の希望も持てなくなるのはむしろ当り前のことだと思います。
みなさんはこれまでの話のどこに「落とし穴」があるのか、解りますか?それは「自分のこと、自分の心がわからない」という部分です。これは明らかな勘違いで、自分の心を「複雑なもの」と考えている証拠ですが、最初に言ったように、「人の心は単純明快なもの」なのですから、本当はそこさえ勘違いしなければ「どうしていいかわからなくなったり」しないものなのです。その理由は「自分のことが解った分だけ人のことが必ず解る」ような仕組みになっているからです。それは例えば、自分の身長が何センチ有るか知っていれば、相手の身長も見ればだいたい予想が付くようなものです。
例えば、あなたの友だちの「Aさん」と「Bさん」がいたとします。
ところが困った事に、この2人は今、仲が悪くなっていますが、あなたはその事と関係が有りません。
そんな時、最初にAさんから「今度の日曜日に遊びに行こう」と誘われてOKしました。
しかし、その後Bさんからも「今度の日曜日に遊びに行こう」と誘われました。
あなたは正直なところ「Bさんの案の方が楽しそうだ」と思いましたが、もしAさんの誘いを断って後でBさんと行ったことがバレたらと思うと、そうもいきません。
さあ、あなたはどうしますか?
上の話は例え話ですが、人によってはとても複雑なことのように思えて、また自分の心も(AさんとBさんの間で)複雑に揺れ動いてなかなか決められない事のように思えるかも知れません。
しかしそれは「八方美人」つまり「誰からも悪く思われないようにするのはむずかしい」と思っているだけで、それさえなければ話は簡単なのです。
例えば「つまらない事でいがみ合っているAさんもBさんも良くない」と思うなら、二人に対してこの際「関係の改善」を求めても良いと思います。自分も迷惑をこうむっている者のひとりとして、その権利が有ると考えても間違いではないでしょう。
また、物事の筋を通すのなら「先に約束したAさん」と、堂々と遊びに行けば良いのです。それを理由に断られて、Bさんが必要以上に感情的になったとしても、解ろうとしないBさんが悪いのです。
ただ正直言って「Bさんとの方が楽しそうだ」という理由で「先約のAさんをキャンセル」というのはお勧め出来ません。何故なら「自己中心的行動」でAさんとの間に「亀裂を作る」のは目に見えています。本当にそれが自分のためになると思うなら、それもアリかも知れませんが。
つまり、このような問題は「八方美人」になろうとさえしなければ、「全くむずかしくない」ということが解ります。「八方美人」というのは大変ズルイ生き方と言えます。それは誰に対しても「表面的に悪く思わせない」ための算段(=計算)の積み重ねに過ぎず、心の奥底にあるのは「自分を守る」ことだけで、そのためには(正確な意味においては)他人の気持ちを裏切っているようなことも、しばしば有ります。隠していてもそれはいずれ人の知るところとなるので、大変に損をする生き方と言えます。
ところで「八方美人」の人は、自分でもズルさを意識したくないので、自分に対しても言い訳や弁解をしますが、その時点で自分の心を「とても複雑なもの」と感じることが良く有り、「自己中心」の人は大なり小なりその傾向があると思って良いでしょう。何故なら「オレは醜い(みにくい)」「ワタシは穢い(きたない)」と誰が大見得(おおみえ)切って言えるでしょうか。
肝心なことは、いつも単純明快で「信じられる自分」を持つことです。そうすれば多少の誤解や曲解を恐れることなく、その先に有る相手の心も「信じられる」ようになります。そうです。その時点であなたはもう「孤独」では有りません。