青少年の何でも書き込み寺 (大人も可)

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子どもでも解る「政治」の話
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    「森友・加計問題」に於ける政府、財務省、国交省に対する追求が国会で続いていますが、国民の中には「自分たちには余り関係が無い。それよりもっと我々の暮らしに直接関係のあることをやってくれ。例えば給料が増えるとか、物が安く買えるとか・・・」と思っている人が少なからずいると思うし、そもそも「政治に興味が無い(むずかしくて退屈だから)」という人もいるでしょう。

    ところがそれこそが大間違いで、逆に「(モリカケ問題の様な)政治家や役人の不正を正し、国政を健全化する事」こそが、実は何よりも私たちの暮らしに最も大きなメリットをもたらすのです。

     

    何故なら、そこで行われているのは正に「不公平、不平等そのもの」であって、もし私たち国民によるチェックや監視の機能が働かなければ、それらはそれこそ「政治家や役人の数だけ」起こり得ると言っても過言では有りません。例えばあれだけ国会で紛糾してきた「森友・加計問題」でさえも(露骨過ぎてたまたま露呈した)氷山の一角に過ぎないとすれば、果たして(自治体をも含めた)全国規模では、一体どれだけの数と規模の「不公平・不平等」がまかり通っているのか計り知れません。

     

    政治家にして見れば、選挙活動や政治活動にお金の掛かる仕組みがある限り、自身のスポンサーを優遇したくなるのは人情であり、また役人は役人で無用な締め付けや追求を避けるためにも、政治家に対して心象を良く(=忖度)しておく必要が有って、そのため「不公平・不平等(=不正)」が(構造的に)非常に起きやすい現状」となっています。(事実、政治家や役人の贈収賄疑惑は跡を絶ちません。)

     

    ところで「森友・加計問題」もそうですが、「不正」を解りやすく言えば「税金(=国民みんなのお金)の使い方がおかしい」ということです。というのも本来そのお金は(みんなが納得出来る優先順位に基づいて)全国民に等しく還元されるべきお金であるにも関わらず、結果として「特定の人々だけが非常に良い思いをする」ということが起きていて、その分「みんなの取り分(還元額)」が目減りしている事になります。

     

    問題はその金額ですが、例えば全体で年間一億円程度であれば国民一人当たり「一円損をした」に過ぎませんが、会計検査院の報告に拠れば毎年「数千億円規模」の指摘がされており、甚だしい年には一兆円を超える事もあるとされています。しかもこれとても調査が及んだ範囲に過ぎず、実質はこの数倍の金額かも知れません。事実「森友・加計問題」では自治体側の税金も投入されていた訳で、もし騒ぎにならなければ双方の出費が共に不問に付されていた可能性が高いと思われます。

     

    ともかくはっきりしていることは、私たちは「森友・加計問題」の当事者たちの「もみ消し、逃げ切り」を許すことで、これからも確実に「毎年一人当たり数万円ずつ」の損失を被り続けることとなり、今後その不足分と称して新たに消費税2%分を徴収される事になります。(要するにバカにされているのです。そんな簡単なことも解らないとすれば、それは「娯楽」にばかりうつつを抜かして政治に関心を持たないからです。)

    | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 11:19 | comments(0) | - |
    久々の国会中継
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      日本の国会でモリカケ問題の追求が始まった途端、北朝鮮のミサイルが飛んで来るという不思議な現象はさておき、安倍晋三本人は元より財務省、国交省の答弁は前国会に輪を掛けて「絶望的」なレベルの低さに到達してしまった。ここまで行くと「おとぼけ、ごまかし、詭弁」の域を脱し、完全な「開き直り」でしかない。答弁する本人たちの自覚の有無はともかく、それは結果として「誰が犯罪者であって、誰が犯罪者でないか」を仕分けする作業に他ならない。何故なら「開き直り」は自らの「悪意」を真っ向から認める行為だからだ。本人たちは「以前と変わらぬ一貫した論法、論調」のつもりだろうが、情報の精度、信頼度等、取り巻く状況が以前と大きく異なる中で「以前と同じ主張」を繰り返せば、相対的な意味合いが変わってくるのは当然だ。

       

      この際「物の道理」として言っておくが、仮にモリカケ問題で「国民に対する背信行為」を行った者が、その役職に於ける他の仕事に対して「国民に対し誠実に履行」することなど有り得ない。思想に基づく限り「一事が万事」であって、ただそのことが露呈するまでに至っていないだけの話だ。

      だから「モリカケでは感心しないが、他の事はがんばっている」などと思わない方が良い。すでに「開き直っている」時点で「要注意人物」を通り越し「危険人物」の域に入ってしまったのだから。

       

      その意味ではNHKのトップも最早「危険人物」の域に到達しているかも知れない。何故なら「国会中継」は放送するものの、ニュースでの「モリカケ問題の矮小化」は各局の中でも相変わらず群を抜いており、ほとんど「無きもの」としたいようだ。

      | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 09:20 | comments(0) | - |
      仲間割れの時代
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        昨日の「あおり運転」の話もそうですが、これらも含めて「仲間割れ」と言ってしまって良いでしょう。何故なら健全な社会は「相互扶助」のもと、平等であり公平であることはもちろんですが、時には「譲り合い」や「助け合い」によって成り立つ場もある事は当然だからです。そこに「仲間意識」があれば当然そうなります。

         

        しかし近年は、一介の庶民同士のトラブル、身内や家族同士のトラブルなど、本来は仲間であり味方同士であるはずの間でのトラブルが絶えません。

        それは何故なのか?

        それは人々が年月を掛けて意図的、計画的に「個々に分断されてしまった」からに他なりません。

        誰に?もちろん社会の構造やトレンドをコントロール出来る人々によってに決まっています。

        何のために?もちろんその方が社会をコントロールしやすいからに決まっています。

        どうやって?これは話が長くなって一言では言い表せませんが、例えば今の親は当たり前のように「知らない人に声を掛けられても返事しちゃだめよ!」と子どもに教えていないでしょうか?そのため子どもたちは近所の大人(=知らない人)から「おはようございます」と声を掛けられても「無視」します。

        謂わばこの状態こそが遠大な分断計画の「仕上げ」とも言えるもので、そこに至る経緯を論理的に説明することも可能ですが、誤解の無い様話すには長くなるので、この場は割愛します。

         

        ともかく社会の人々は、取り分け「直接的な利益共有の関係」でもない限り、お互いを「潜在的な敵」とさえ見做す様になってしまいました。それがいったい誰を利することになるのか、この際よく考えてみるべきだと思います。少なくとも「利するのが自分では無い」事だけは確かです。もちろん一般庶民の誰かであるはずも無いということです。

         

        このように日常生活に「敵対関係」を持ち込む事に何ら合理性は有りません。(それこそ社会の目的に反しています。)「いや、防犯上・・・」と言いたいのでしょうが、確かに社会に於いて生活に困窮した人が増えれば、物盗りが増えるかも知れませんが、それは「悪循環の結果」であって、ならば防犯意識もさることながら、それ以上に社会に於ける「貧富の差を無くす」事にこそ強い関心を示すべきではないでしょうか。

        何れにせよ「他人を潜在的に敵視」することには不利益が多すぎます。それは社会に「一触即発」の空気を醸成し、自らを思いも依らないトラブル、身の危険に晒すことを意味します。即刻やめましょう。

         

        私たち一般庶民はみな、同じ境遇、同じ悩みや苦しみを共有している「仲間」だという事実を再認識するべきだと思います。そういう人が増えれば社会は確実に変わります。

        | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 09:00 | comments(0) | - |
        頭にくるな。腹を立てろ。
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          ここ数ヶ月の間で閲覧数の多かった記事のベスト3は、《 1.内輪揉めして誰が喜ぶのか 2.「公共の精神」とは 3.ストレス解消法について 》となっており、実はこの3つの閲覧回数は他の記事に比して圧倒的に多く、しかもそれぞれが互いに無関係ではない(=同根)ということです。

          無論その根源には、社会の荒廃と人々の共倒れを暗示させる「競争社会」の存在が有り、何れの問いに対してもまず、自分自身の心の内側から「人を人とも思わずひたすら敵を量産する」その恐ろしい思想を排する必要が有ります。

          ところで「競争社会」では、必然的に人は「頭にくる」ことが多くなります。何故なら「自分の行く手を阻まれるから」であって、お互いに先を争っている訳ですからこれは当然です。もちろん(犯罪者でない限り)お互い最低限のルールは守るかも知れませんが、さりとてマナーまで律儀に守っていると「確実に人に遅れを取る」と考えるに違い有りません。そこで自ずと双方がグレーゾーンに足を踏み入れ、いつもギリギリの線を狙う構図が常態化することになりますが、これは言い換えれば人々が好き好んで「一触即発」の状況を作り出している、ということです。

           

          ここで改めて先ごろ取り沙汰されている「あおり運転」を分析して見ると、前述の話にピッタリと当てはまる事が解ります。つまり「相手の身勝手(?)な運転に頭にきた人が、それに輪を掛けた身勝手な運転で仕返しをする」ということになるのでしょうが、そもそものきっかけが被害者側の軽微な「マナー違反」であることが多く、それに対して加害者側が過敏に反応し「頭にくる」のは何故でしょうか。

           

          それは、道路という公共の場に於ける「権利の過大な主張」に他なりません。つまり「行く手を阻まれた」或いは「不快な思いを強いられた」という怒り自体が、既に道路の「公共性」の概念から逸脱し「私物化」に近い感覚とも言えると思われます。(自ら相手に懲罰を課すという行為がそれを裏付けています。)

           

          確かに「ノロノロ運転」や「頻繁な車線変更」「信号の変わり目の拡大解釈」等々、周囲への配慮を欠いた身勝手な運転は(マナーとして)感心出来ず、公共意識の感じられない「権利の過大な主張」に当たる場合があるのかも知れませんので、こうしたトラブルを回避するためには道路が「公共の場」であることをお互いに再確認する必要があると思います。(つまり無神経も過敏も同根ということです。)

           

          このように「公共(=共有)の場」に於ける「我先に、我が物顔で、身勝手に」などはみな「競争社会」の特徴に他なりませんが、そこには「追われる身」に特有の余裕の無さが如実に表れています。それは例えば「生活に追われる、仕事に追われる、時間に追われる」などであり、そのせいもあって「周囲に配慮する」どころの話では無く、それこそ「死活問題」として自己中心が自身の中で正当化されることとなるでしょう。つまり「我先」が当たり前の世界観ですが、もしみんながそうであったなら、そこにどんな社会が出現するのかは想像に難く有りませんし、「あおり運転」も謂わばその重大な警告の一つに過ぎないということです。

           

          「頭にくる」とは言い換えれば、自分を見失った「前後不覚の状態」であることは、結果を見れば解ります。それは単純に行く手を遮る目の前の障害物に怒りをぶつけるだけの行為でしかなく、それが人で有ろうと無かろうと関係なく、仮に石ころや電柱であっても同じことで「行動の結果がどうなるか」の判断が出来る様な状態では到底有りません。

           

          一方で「腹を立てる」のであれば、それなりに物事が好転する可能性が有ります。「腹を立てる」とは、人間が「本気で構える」事を意味し、その場合の対象は「相手の人間」と言うよりは、むしろ「今起きている事」と言って良いでしょう。そのきっかけは確かに感情(情緒的)かも知れませんが、その目的が「問題の解決」にあるところが「頭にくる」場合とは大きく異なります。

           

          本当に「腹を立てた」人は、まず「何故こうなったか」を分析しますが、この時点でより深い分析が出来るほど問題の本質に近付く事が出来ます。次に自分を見直しますが、それは自分の問題解決能力の有無をチェックする必要が有るからです。能力が足りていれば、即有効な一手が打てるでしょうし、足りていない事が判れば何もせずに自らの能力アップを決意する事となるでしょう。

          世の中にはこのように「腹を立てた」事をきっかけとして自己を鍛錬し、能力を高めて社会貢献に結び付けた人が少なからずいます。

           

          ですから私も敢えて言います。「頭にくるな。腹を立てろ」と。それは理性と感情のコラボレーションのことで、それが人にも自分にも良い社会を築くための一つの方法であることは間違い有りません。

          | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 09:14 | comments(0) | - |
          政府の「高校無償化案」に驚愕!
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            今朝のNHKニュースで、政府の「高校の無償化に関する新制度導入」という話が耳に入ってきました。(NHKは挙動チェックのため時折り確認しています。)

            リンクはこちら→ http://www3.nhk.or.jp/news/html/20171124/k10011233581000.html

             

            内容は掻い摘んで言えば「非課税(=低所得)世帯以外は無償化せず全て将来の借金となる」という話で、非常に違和感を感じます。これでは「目先の支払いが無い」と言うだけで思わず手を出してしまう「カード地獄」と構造的に変わりません。しかも「良識ある国民を育成する目的を持つ教育を盾に取っての借金の強要」という発想が実にやるせない気持ちにさせ、本気でそんな事を考える人たちの正気を疑いたくなります。

             

            また、そこには「将来の所得に応じて(=出世払い?)」などという文言も有りますがが、もし仮に高校のみならず大学も含めた7年分の借金が生じている場合、いくら働いても(借金返済のため)それを暮らし向きに反映させられない(手応えの感じられない)期間が相当な年月に及ぶ事になり、それは将来に備えた蓄財、投資のための節約とは全く意味合いの違う「人生への負荷」としか言い様が無く、(経済的は言うに及ばず)心理的な重荷としかなり得ないでしょう。(借金が若者の足を引っ張り続けます!)

             

            借金とは(人の心の弱みにつけ込むという意味に於いて)極めて悪魔的と断言します。よって経済学者が何と言おうと、私たちは「借金しなくて良い社会や暮らし」を望むべきだと思います。

            それにそもそも「教育の無償化」に対して、政府(=安倍政権)から余りにもお粗末な方針しか出てこない事自体が国としての「優先度の低さ」を物語っています。しかし一方でそれは私たち庶民、取り分け子どもや若者を直撃する問題であることは間違いなく、現政権が如何に国民を軽んじているかを暗に示す結果と言えます。(言葉は嘘。現にやっていることが本当。)

             

            だから「財源が無い」というのも嘘。ただアメリカからの防衛装備品(=兵器)の購入を最優先し、借金に喘ぐ庶民の生活や教育なんかどうでもいいと思っている、と(言わず語らず)態度に表しているに過ぎません。

            皆さん、それでよく平気ですね?

             

            | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 09:37 | comments(0) | - |
            職業は役柄を「演じる」もの
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              昔から「心を鬼にする」という言葉があるが、世の中にはその言葉がピッタリ当てはまるような仕事や立場があるのは解る。だがそれは自分が「鬼(そのもの)になっていい」という意味では無く、言うなれば「その場ではそういう役柄を演じろ」と言われているに過ぎない。つまりこれは「言葉の綾」であって、人間の心が一瞬足りとも鬼になっていい瞬間など、そもそもあるはずが無いのだ。

               

              例えば(これは役人全般に言える事だが中でも)警察官。職務遂行のために「融通を利かせられない」事は、役割の性質上やむを得ない(場合も有る)のはよく解るが、自分自身が「融通の利かない人間」になってどうするのだ。それでは単に「私はコミュニケーション能力の低いダメ人間です」と言っているようなもので、まともな社会では誰からも相手にされなくなるに違いない。そうではなく敢えて「(心を鬼にして)嫌われ役を買って出る」というところで「警察官」という職業が尊敬の対象とされるのではないのか。

              もし警察学校がそういう教育をせずに、それこそ「お前たちは鬼になれ」の如き指導を行っているのであれば、即刻解体した方が良いだろう。(心が鬼のような人間は、むしろ矯正すべきだ。)

               

              それから「商人(ビジネスマン)」に有っては、商売自体が「取り引き」や「駆け引き」或いは「競争原理」が働くことで成立しているものであることは解るが、それも社会構造の中の「そういう役割を演じて下さい」と言われているに過ぎない。つまり経営者が「お人好し」だったり「情にほだされて」ばかりでは経営が成り立たず、会社を潰してしまっては「本末転倒」ということだが、それとて「機械の如く無感動で冷酷非情な人間になれ」という意味では無い。もし「ビジネスのため」と称してそんな人間教育が行われてしまったら、それこそ「ビジネスは発展するが、人間は破壊され社会が崩壊する」という、別の意味の「本末転倒」にしかなり得ない。

               

              しかし残念ながら、それが社会の現状だ。そうではなく、職業は職業としてあくまでも「その役柄を懸命に演じる」のは結構だが、人間が丸ごと呑み込まれて良いものなど殆ど無い。

              何故人間はその事に気付かないのか、それは人間として生きることの真の目的が理解出来ないからに違いない。

              | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 09:52 | comments(0) | - |
              「便利」と「危険」は常に表裏一体
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                歴史的に見ても「便利なもの」は全て(使い方を誤れば)「危険極まりないもの」に変貌するという経緯が有ります。

                 

                例えば「兵器」一つ取っても、元々は農耕や狩猟のための「便利なツール」として考案されたものを転用したのが始まりでしょうし、その意味では車両、船舶、航空機など近代戦の主役たちも、元々は人々の暮らし向きを向上させるためのアイデアを転用したに過ぎません。(核兵器も然りです。)

                また、現代の戦争に於いてはコンピューターが多用されていますが、これも典型的な「便利ツールの兵器利用」と言えるでしょう。

                このように私たちの暮らしを豊かにするはずの「便利なアイデア、テクノロジー、ツール」などは、それを利用する人の心次第で全て(人類にとって)「危険極まりない存在」と化してしまうことを、私たちは歴史的教訓からも再確認する必要が有ります。

                 

                しかし「兵器」であれば、そうした話もまだ解りやすいと言えます。世の中には、兵器よりももっと厄介で極めて危険な「ツール」が在ります。それは使い方を誤れば「極めて大きな破壊力」を持つものです。

                それは「お金」です。

                お金は元々、需要に対する供給(=物々交換)をより円滑に行なうための「便利ツール」として考案されたに違い有りません。それは「価値の経年劣化がない」「いつでもどこでも何とでも交換出来る」といった、物にはない特徴によって実現出来ました。(言い換えれば「物の不便さ」を克服するためのツールであった訳です。)

                ですから人々の暮らしぶりや経済感覚は従来のままであっても何ら問題無く、ただ取り引きの際にお金を介在させることで物々交換の際に生ずる「わずらわしさ」が軽減されるというだけで十分に便利であったはずです。

                 

                しかし案の定、事はそれだけでは済みませんでした。それは便利さの裏返しとしての「蓄財」と、手軽さの裏返しとしての「喪失」という現象に象徴されるように、お金が人々の経済感覚を一変させ、そのために人々の暮らしぶりまでがお金に左右されるようになってしまいました。

                こうしてお金は便利なツールである「脇役」であったはずが、いつの間にか人々の生活の中心を占める「主役」にまでのし上がってしまった訳です。

                ですから人々は簡単にお金に吊られ、お金に左右され、お金に振り回され、挙句はお金に支配されてしまうのも当然であって、更に不幸なことには「お金に麻痺させられた」結果、それらがおかしいことにも全く気付けないということのようです。(正確には「お金にされている」ではなく「お金を操る人たちにされている」ですが。)

                 

                このように「お金にもてあそばれない」ためにはどうすれば良いでしょうか。

                答えは簡単です。世の中の動向がどうであれ、現在のトレンドが何であれ関係なく、自らがお金を人生や生活の中心に位置付けるような愚を犯さずして、昔ながらの「物々交換の代用品としての便利ツール」とわきまえて置きさえすれば良いのです。(そもそも「消費を煽る」などというのが「資本主義」特有の如何わしさそのものです。当たり前の感覚であれば人間は必要なもの以外は要りません。)

                私たちは、お金は人を死に追いやり、一家を離散させ、国を滅ぼし、世界を荒廃させるとてつもない破壊力を持つ「兵器」として日夜使われている、ということを忘れてはなりません。

                | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 09:11 | comments(0) | - |
                「インチキ臭い」とはどういうことか
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                  今日のタイトルが「インチキとは」ではなく、敢えて「インチキ臭い」としたのには、それなりの理由が有ります。それは今の段階で具体的な事例を掲げて「これはインチキ」と一方的に明言し公言する事は時期尚早であり、それよりもむしろ私たち一人ひとりが「インチキの臭い」を嗅ぎとって、自らがそれを判断することの方がより重要と思われるからです。

                   

                  その上で話を進めますが、まず「インチキ(=嘘、偽、不正)」なものにはインチキ特有の臭いが有り、それは本物には決して無いものなので、その気になりさえすれば(インチキかどうかは)すぐに判明することが出来ます。ですから逆に見れば「インチキに騙され続ける」ということは、「本物を求める気持ちが乏しい(=インチキで構わない)」という内面の裏返しということになりますから、そのような人に「それはインチキですよ」と声を掛けても「余計なお世話」「有難迷惑」としか感じないでしょう。

                  つまり世の中には(無意識のレベルに於いて)「好んでインチキを求める人」もいるということです。

                   

                  それでは実際に「インチキの臭い」とはどういうものを指すのでしょう。

                  まず世間に於いて「(唐突感を伴った)繰り返し声高に熱弁される事(や物)」の大半は「インチキの臭い」がします。そこでは「性急」「強引」「一方的」「感情的」などの強迫的な特徴が見られ、物事の自然な推移を無視した「一大事、重大事、緊急性を煽る印象操作」によって、人々に対して沈着冷静な判断の猶予を与えません。(殆ど振り込め詐欺の特徴と重なりますが。)

                  つまり「ヒステリックなものほどインチキ臭い」ということで、本物は前述したような特徴を一切持たないものです。(地味なもの(や人)ほど信頼出来ます。)

                   

                  また、大げさなパフォーマンスや目立つキャンペーン、派手なコマーシャルなどは、総じて裏で何かを「隠蔽」したいがためのカモフラージュ、目くらまし、見せかけとして用いられることが往々にして有り、それぞれ実質的な価値に対して「大げさ過ぎる、目立ち過ぎる、派手過ぎる」ことが胡散臭さ(=インチキ臭さ)を醸し出しています。

                  昔ながらの「猫撫で声」や「うまい話」なども、本音を「隠蔽」するという意図に於いて、同様の胡散臭さが漂うものです。

                   

                  これら「インチキ臭さ」は、たとえその発信元がどこであろうと何であろうと変わりません。それは大企業や報道機関に限らず、例えばそれが日本政府によるものであろうが、国際機関によるものであろうがインチキ臭ければそれが「インチキ」である可能性は否定出来ません。何故なら、本物であればインチキ臭いはずが無いからです。(もし断定出来ないのなら、少なくとも注視しておく必要が有ります。)

                   

                  インチキに気付いて適確に対処出来るかどうかは「私たち個々の死活問題」に直結していることを忘れないでください。

                  | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 11:14 | comments(0) | - |
                  良い頭を何のために使うのか
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                    やれ「東大生(東大卒)」やら、医者、弁護士ら「インテリ」と称する連中がやたらともてはやされ、クイズ番組などで茶の間を賑わしている昨今のテレビ事情だが、もちろん国を動かす立場にある政治家や官僚に至っては、今更ながらその手の「高学歴連中」が大半を占めることになる。こうした世情を鑑みればまるで「そうであることがブランド(=信用、品質)の証し」のように思えるが、本当にそうだろうか。

                     

                    本来、人間の「品質」とは(人間が社会的存在であることの裏付けとして)その「清廉さ」や「志の気高さ」、実質的な「包容力の豊かさ」などとして表されるものであり、当然それら「資質として備わったもの」を具体化するために「仕事力(=実務的能力)」が求められることは解る。その意味では「高学歴やインテリジェンス」が「仕事力」の一部を担保する要素であることも理解できる。だからそうした備えを持つ事を否定はしないが、それは「有れば有るに越したことはない」という程度のもので、到底“金科玉条(=絶対的な拠り所)”などと考えるべき代物とは言えない。何故ならそれは他にも幾つも必要な「仕事力」を支えるツールの一つに過ぎないからだ。

                     

                    にも関わらず、社会ではそうした「高学歴系」の人たちがあたかも天下を取ったように振る舞う傾向があり、実際に社会はそうした人々によって支配されているかのように見える。インテリジェンスによって卓越した視野を有するから?インテリジェンスによって正確無比な分析力を有するから?・・・・・違う。エリート意識がもたらす「差別思想」によって、おぞましいほどの「権力欲」が働き、そのためには何でもするからだ。(たとえ人の道に背くことでも。)

                    これは決して想像で物を言っている訳ではなく(以前のブログにも書いた通り)私は実際に(建設現場での不正行為を見なかったことにした高学歴の)父親から、昔ながらの不正(=反社会的行為)の実態を聞いている。小心者であった父親でさえそうなのだから、肝の座った世のエリート連中がその百倍不正を行っているとしても何ら不思議ではない。

                     

                    要するに「頭がいい」とはそういうことで、おかげで私などは他人からそう言われると何だか「バカにされている」気さえする。何故なら「頭のいい輩」の大半は、その頭を「自己保身」と「野心を満たす」ためだけに使っており、自分もそんな風に見なされては適わないからだ。だから「いや、頭は良くないです。」と即座に否定する。

                    実際(状況把握を含む)殆どの物事の判断に「頭」など使わないし、必要ない。それこそ「心が有するバランス力」プラス「幾ばくかの経験値」で十分なのだ。第一、ムダに頭を使うことはエネルギーの浪費であって、そんなことではとても何十、何百とある課題を効率よく適確に処理するなど不可能だろう。(頭がパンクしてパニックになるのがオチだ。)

                    言い訳の上手い下手を別にするなら、高学歴やインテリと称する人たちの処理能力が概して高いとは決して思えない。事実、そういう人々の主導する社会の現状は課題が山積みされたまま惨憺たるものではないか。

                     

                    そろそろ「心のおぼつかない人々」は社会を主導するポジションから淘汰されるべき頃合いではなかろうか。

                    | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 08:28 | comments(0) | - |
                    何故、「教育の立て直し」が最重要課題なのか
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                      この問いの答えが今ほど解りやすい瞬間は無いだろう。何故なら「教育を誤るとこういう人間になってしまう」という、まるで「失敗作の見本」みたいな人たちが入れ替わり立ち替わり現れては、(懇切丁寧に)それを教えてくれているからだ。

                      それは「ナチスに学べ!」どころの話ではなく、まさしく「俺達に学べ!」と言わんばかりの「わかりやすさ全開」の人たちだ。その「アッパレ過ぎる言動」からは、「立派な反面教師として生を全うしよう」という高い志すら感じざるを得ない。(多分それは無いだろうが。)

                       

                      取り分け「安倍晋三、麻生太郎、菅義偉」の各氏に加え、最近では「小池百合子、前原誠司」らの活躍により、広く国民の間に「教育の誤りは国を滅ぼす」との認識がもたらされるに至った事は喜ばしい限りである。国民は「わずか一握りの間違った教育を施された人たちによって国家が崩壊し得る」という事実を知り得た訳だから、この功績は大きい。

                      また、類は類を呼ぶ訳だから、この人たちの周辺や後ろ盾となっている人々も、やはり「誤った教育を受けた人々」ということになるから、これも解りやすい。

                       

                      結論から言うと「今、世の中は非常に解りやすい状況にある」ということであって、これで解らないとなればそれは解らない人自身に問題が有ると言えよう。

                      それはともかくも「教育の誤り」は何も国政の場に限らず、そうした人々の立場に応じて社会のあらゆる単位のあらゆる部分でその健全な維持、発展を阻害し、それらが全体として「社会の衰退(=人々の分断)」という方向性をもたらしているのは明らかである。

                       

                      人々は肝心な事を忘れている。それは「本来、人と人は放っておいても結びつくもの」という認識のことだ。誰しも生まれ持った人間性が働けば必ずそうなる。(「まさか!」と思ったアナタ。それは絶望的なマインドコントロールによるものです。)

                      そもそも「社会の発展の礎(いしずえ)は人と人との結びつき」に他ならない訳だから、それを否定する教育など有り得ないことになるが、しかし現実には「社会に於ける人と人の結びつきの希薄化」が進行しているとなれば、日本では実質そのような(本来有るまじき)教育が行われてきたということだ。でもどうやって?

                       

                      その方法は簡単だ。ただ「勉強は自分のため、だから自分のために勉強しろ」と吹き込むだけで良い。この魔法のおまじないだけで、人は「競争社会」を受け入れると同時に自ら「人間性」を排除し、代わりに打算や狡猾さを取り入れることになる。

                      つまり能力の高い人は「力ずく」で打ち勝ち、能力の低い人は「他人を陥れて」自分が生き残るという寸法だが、もちろん「合わせ技」も有りだろう。

                       

                      そんなことだから「権力の座」に群がってくる輩にろくな人間がいないのは当然で、彼らは言い換えれば「人間性を捨てた人たち」であり、それ故「社会を破壊し、国を滅ぼす」ような発想しか持ち得ないと言える。

                      そうならないためには、それこそ教育現場で「人間性を失うことは人間(=社会的存在)として名乗る資格を失うことであって、学や知識は決してそれに代わるものではない」ぐらいのことが言えないとまずいだろうが、今の先生たちでは恥ずかしくて言えないかも知れない。

                      | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 10:29 | comments(0) | - |
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