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例えば「学芸大学付属高校」の件など
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    学芸大学付属高校が校内で「いじめ」があったことを認め、学校側の記者会見が行われたとの事ですが、問題は学校側の対応の遅れ云々ではなく、元々伝統的に自由で明るかった校風が、近年になって生徒に対する制約や締め付けが強化され、陰湿で重苦しい雰囲気が漂う様に変貌してしまった(という証言に見られる様な)学びの環境の変化ではないでしょうか。

     

    そもそも「いじめ」というものは、元々は親が「競争社会」を意識する余り、子どもに過剰な負荷を掛けることによって、子どものストレスが精神を蝕むまでに増大したことが要因ですが、嘗ては学校や友だちが子どもたちにとって「唯一の逃げ場」として機能していた時代も有りました。

    しかし平成十八年の「教育基本法の改悪」を皮切りに、今や学校は(義務教育期間を含めて)紛れもなく「子どもを追い込む側」の存在に変貌してしまいました。

     

    本来であれば、こうした「(民主主義を否定するような)国家主義」を彷彿とさせる様な「改悪」に対し、直接子どもたちの教育に従事する教職員が一丸となって「異議を申し立てるべき」重大な案件だと思いますが、何事もなくスルーしてしまう時点で、大方の教職員が「教育者」とは名ばかりの取るに足らないサラリーマンに過ぎない事はとっくの昔に露呈しています。言ってみればそれは「子どもなんかどうだっていいんだよ!」と口に出して言わないまでも、態度で示しているのと同じです。

    方や馬鹿親たちは相変わらず我が子に対して「他人を蹴倒してでものし上がる」事を教え続けています。

    これでは追い詰められた「まともな子どもたち」がおかしくなるのは当然です。(この場合逆に「親の言う通り、先生の言う通り」と信じて疑わない子の方がたちが悪いのです。)

     

    こうした救われない大人たちは、自分たちが決して「善人とは言えない」事を知っていますが、かと言って「悪人とも言えない」などと、お茶を濁して納得しようとしています。そういう人間のことを「トボけた連中」と言います。当たり前でしょう。特に「教育者」の場合、自分たちがこの先関わるであろう何百、何千という無垢な子どもたちを寄ってたかってボロボロにして行く片棒を担いでいるのです。それが「悪人」と言わずして何と言えば良いのでしょう。

    そうした事案に対して「霊界」は極めて厳格であるということは、この際覚えておいた方が良いでしょう。

    | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 09:40 | comments(0) | - |
    「物の豊かさ」とは何か
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      前回は「幸福とは物の豊かさではない」という話をしました。では「物の豊かさ」とはいったい何でしょう。

      それは「肉体に対する安全保障」に違い有りません。つまり肉体を未来に向かって安心・安全に維持し続けるためには「有り余るほどの物(=お金)」が必要であるという共通認識がそこに有るのだと思われます。

       

      しかしこうした考え方は極めて「非論理的」です。何故なら地球上には、その時々に現存するすべての人間が同時に「有り余るほどの物」で充たされるだけの供給(=資源、土地、労働力)の余裕は有りません。それを無理に推し進めようとすれば逆に「環境破壊」を招き、見る影もなく地球が荒廃するだけです。(但しすべての人が過不足なく物の恩恵に浴する事であれば常に(今でも)可能です。)

       

      そこで「一部の愚かな人々」は、その悪い頭を使って考えます。それは即ち「物をお金に変え、お金で権力を買い、権力を暴力に変え、暴力で搾取を行なう」という方法による「富の独占」です。昔は露骨な「侵略戦争」「植民地支配」「奴隷制度」「人種差別政策」であったものが、(発想はまったく同じままに)今は「民主化」「自由化」「国際化」など、本音を包み隠した詐欺的、謀略的要素が強くなっているだけで、相手の意をまったく解そうともせず最終的に難癖を付けて「暴力(軍事介入、テロ)に及ぶ」ところは何ら変わっていません。

       

      取り分け近年は、無国籍企業が経済力を武器に「国家」を丸ごと乗っ取り、その国を使って侵略や搾取を行なうという、正体を見せない「寄生虫的手法」が好まれている様ですので、国民は自国政府の「国家に不利益をもたらす様な不穏な動き」には十分注意する必要が有り、日本も例外では有りません。特に「グローバル化、国際標準」などという言葉の中には「自国民に対する軽視、無視」が込められている場合が有ります。

      (それらについては「カレイドスコープ」「金貸しは国家を相手に金を貸す」など、より専門性が高く記事の充実したサイトで確認されることをお勧めします。)

       

      ここで重要なことは、そうした「有り余るほどの物」に憧れ、事実上その「収奪」を実践する人々の全員が、それによって多くの人が困窮し、死に至らしめられる事さえ有ることを認識しているという事です。もちろんその中には赤ん坊や多くの子どもたちが含まれることも知っています。逆に言えば「それを知って怯む様な人間は私腹を肥やす事など決して出来ない」と言い切ることが出来ます。そう考えれば、今現在その様な立場にある(人口の1%と言われる)人々が極めて「悪魔的」であることが理解出来ると思われます。

       

      しかしそれより更に重要な事が有ります。それは「決してそのような悪魔的な感性の人々を羨んだりしてはならない」という事です。あの人たちはハッキリ言って「ろくでもない人たち」です。敢えて人を羨ましがらせ様とするのは、自分たちの地位を高いものと他人に錯覚させ、正当な権力者の様に他人に誤認させるためのパフォーマンスに過ぎません。しかし実態は「身勝手で浅ましく冷酷無比なケダモノの様な思考の持ち主」で、人間的に「何の価値も無い人々」ということです。

       

      そうして私たちが、そのようなレベルの低いくだらないマインドコントロールから解き放たれる事が出来た瞬間に、悪魔的な人々の力は無力化され、その存在は真っ当な幸福を求める人々にとって何の妨げにもならなくなるでしょう。何故なら「誰も騙されなくなる」からです。そして「誰も競争しようと思わなくなる」ためです。

      普通の人間は「人を犠牲にしてまでいい思いをしたい」とは思えないものです。それは人間が生きる上で「肉体の安全保障」が全てでは無く、それに先駆けて「心の安全保障」が必要である事を生まれながらに知っているからです。

       

      即ち「心と肉体双方の安全保障」をイメージした結果が、当ブログのモットーでもある「みんなで良くなろう」「みんなで良くしよう」という人々の関わり方、社会の在り方と言えます。

      | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 08:14 | comments(0) | - |
      改めて「幸福とは何か」
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        幸福を「物質的な豊かさ」と思っている人は論外です。にも関わらず、残念ながら「(それだけとは思わないが)それも確かに必要」という人たちも含めると、何と94%もの人が「幸福と物的な関わり」を信じて疑いません。それは一言で表せば「原因と結果の履き違え」ということです。

        多くの人たちが「物質的な欠乏の無い状態を幸福に至る条件(=原因)」と考えていますが、本当のところはそうではなく、「幸福な状態の結果として物質的な充足が伴われる」ことになります。

        これは実際に試してみればすぐ判るのですが、誰も「怖くて出来ない」というのが本当のところでしょう。何故ならそもそも「幸福に至るノウハウ」を持っていないからです。試してみるのも良いが、いつまでも幸福に至れずもたもたしている内に物的に困窮し、最後には本当に飢えて死んでしまうかも知れません。それ故、人はなかなか「物的充足は幸福の結果である」という確信に至れないとも言えます。(答えは目と鼻の先にあるのですが。)

         

        幸福とは「ある一定の心の状態(心境、境地)」を指し、高レベルに至るほどその状態を維持するための「物的条件」は希薄となり、最終的には不要となります。(つまり何があろうとブレないということです。)

        また、その結果は「(平均)霊層段階」にダイレクトに反映され、その人間の霊的価値となり、比較的高所に設けられている様々な「霊魂本来の因縁発動」の由縁となります。その意味でも人間が「幸福(の境地)に至る」ことは、その人が謂わば「本物の人生」を送る上での絶対条件とも言え、そうでない場合は「偽物(借り物)の人生」に甘んずるしか有りません。(例え物的に豊かであろうと「偽物は偽物」でしかないのです。)現に多くの人々が感ずる「不安や焦燥」は、「霊的バックアップの欠如」によるものが殆どです。

         

        幸福の境地に至るためには「智慧、勇気、愛、情」という4つの心の要素がバランス良く働いている状態でなければなりません。これらは目的に向かい、それを完遂するための動機でありツールでも有りますが、最初から4つがきれいな横並びで揃っている事はむしろ稀で、最初はたった一つかも知れませんが、目的に向かって進んで行く過程で足りない面をその都度補ったり強化しながら「最終的にバランスさせる」イメージです。

        人間は「目的」さえ間違っていなければ、これは必ず達成され、万人が幸福に至るものと確信して良いでしょう。

         

        ところで大別すれば「人間の目的」は2つに1つ、即ち「二者択一」でしか有りません。これはどんな人でも(無意識に)そうなっています。

        まずひとつ目に「自己」を中心とした目的が有ります。これは具体的には「肉体の持つ物質的、生理的な欲求に応える」ことを目的とするものです。

        もうひとつは「霊界」を中心とした目的が有ります。これは「心(取り分け良心)」の求めに応じることを旨とした生き方の事です。(総じて打算を排し、何(誰)に対しても実直さや誠実さが求められます。)

        「霊界」という表現は、他にも(余りにも良く知られた)呼称が有りますが、逆に「安易」なイメージを持たれ兼ねないため、用いたく有りません。しかし「霊界」そのものが構造物であり、自然発生した訳ではないことを踏まえれば、意図はご理解頂けるかと思います。

         

        「幸福」とは、そのような「形態」に到達する事ではなく、バランスの取れた持続的な心境を表したもので、言い換えれば「既に私たちの手中にあるもの」の事です。(それは私たちに絶対的な安心立命をもたらします。)

        | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 12:06 | comments(0) | - |
        霊界のキャスティングについて
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          今年6月のBrexit、米大統領選のトランプ勝利と、世界の流れを変えるような番狂わせが続いている事と、霊界のセッティングが完了している事とは決して無関係ではなく、私たちの生きる人間社会には既に「何人(なんぴと)たりとも抗うことの出来ない方向性がもたらされている」と理解して良いと思います。その際私たちの有する選択肢として「流れの方向性を変える」というものは存在せず、あくまでも(個人として)そうした「(霊的な)規定の流れに乗るか反るか」でしか有りません。言うまでもなく「乗る」とは霊界の意向に沿う事を示し、「反る」とは霊界の意向に従わないという意思表示に他なりません。そしてそれらの結果は、それぞれ主として「個人の身」に対してもたらされ、全体の流れの方向性に大きく影響が及ぶ訳では有りません。

          この際の「全体の流れの方向性と個人の方向性の相関関係」を私たちが具体的且つ論理的に理解する術は有りません。何故ならそれは私たちの理解の遠く及ばないレベルで行われているからで、しかも私たちが「知る必要の無い事」だからです。(それはちょうど水深一万メートルの深海でどのような自然の営みが行われているか、私たちが直接知る必要性に迫られていないのと同じ事と言えます。)

           

          ところで私たちが日頃ニュースなどで知るところの、いわゆる時代の流れに影響力を持ち得る「キーパーソン」的な人物、例えばオバマ、プーチン、最近ではドゥテルテ、トランプなどは、いったいどういう人々で、どういう役割を担った人物と言えるのでしょうか。正義のヒーロー?はたまた人類の敵?もちろん一概には言えないものの、私たちはそこに何らかの目安となるものを求めているのもまた事実だと思います。

           

          確かに人間社会では先駆者、功労者、立役者、中心人物などと、社会的功績に基づいてその人間の存在意義、存在価値などを相応に評価する習わしがありますが、霊的には単に本命、繋ぎ、当て馬などの「キャスティング」はあるものの、役割自体に価値の高低がある訳ではなく、個人としてどれだけ忠実に、誠実に自分に与えられた役回りを演じられたかが評価の対象となる事は「キーパーソン」に限らず、万人に共通のものとなっています。つまり極端な話、アメリカ大統領だろうと日本の農家のおじさんだろうと、評価の基準は何ら変わらないということです。

           

          これは「キャスティング」の話に戻せば、(霊的には)主役だろうと脇役だろうと悪役だろうと通行人だろうと、みな同じギャラで同じ扱いになります。何故なら、どの役回りであろうと全体像として見た場合の価値の隔たりは無く、しかも「代わりは幾らでもいる」からで、単純に「嫌なら止せ」という事にしかなりません。

          このように「霊的」とは、重要なポジションに付くものが「何様振る」など、およそ有り得ない世界ということです。

           

          ひとつ私の経験として申し上げるなら、自分の(霊的)役回りが果たして「本命であるのか、繋ぎであるのか、当て馬であるのか」など、本当のところは本人ですら知り得ません。役割を忠実に、誠実に果たし終えた者にとっては、それがどうであるかなど実は「どうでも良いこと」なのです。心に「正しいプライド」を持つ人はみなそうであるはずです。何故なら重要なのは「役回りそのもの」ではなく、それに対して「誠実であること」だからです。

          | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 11:53 | comments(0) | - |
          神は博打を打たない
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            当ブログでは時折り「あたかも霊界が見えているかの如き」口振りで記事を書き連ねる事が有りますが、今日もそれに準ずる内容です。

             

            ここに物事を「霊的に理解するために役に立つキーワード」が有ります。それは即ち

            ○ 神は博打を打たない

            ○ 人はエラそうにしてはいけない

            ○ 助けるとは自分が助かることだ

            の3つです。

             

            例えば人間は、他の誰かが生命の危機に瀕(ひん)している時や、非常に困った状態に陥っている事を知った時、「助けてあげたい」と思うのが普通です。そこまでは問題有りません。しかしそこから先が問題なのです。

            果たしてアナタが相手の命を助ける事が出来たとして、普通は「私は相手の命を助け(てあげ)た」として、相手から相応に感謝され、一件落着となりますが、これを「霊的に理解」しようとすると、その様相はかなり異なってきます。

             

            「霊的」には「助かるべき人」はどうあっても助かる事になっています。仮にアナタが助けなければ「他の誰か」が助けますし、万一誰も助けようとしなくても「物理的な偶然」が重なって結局助かる事になります。偶然という意味では、そもそもアナタがその場に居合わせたこと自体が「物理的な偶然」と捉えることが妥当だと思われますが。そのように、その人が助かるための策は幾重にも張り巡らされているもので、それを以って「神は博打を打たない」と表しています。

             

            そうなると話はまったく変わってきます。アナタは相手の命を助けるためには(別にアナタでなくても良かったのですが)たまたまアナタが名乗りを上げたために(他の方法より優先的に)アナタが助ける事になったに過ぎないと「霊的」には理解されるでしょう。

            つまりアナタは「助けてやった」立場ではなく「助けさせてもらった」立場の人間ですから、間違っても(その事を以って)エラそうに振る舞うことは出来ないという事になり、物事が万事そうである限りに於いて「人はエラそうにしてはいけない」のです。

             

            では「アナタが助けたこと」には大した意味は無かったのかと言うと、そんな事は有りません。その行為によって「アナタはとてつもなく成長出来た」と思われます。また今後、同様の気持ちで積極的に「人助け」に邁進する事で、更に「とてつもない成長」を遂げることでしょう。それはおそらくアナタが「あなたの人生」をコンプリート(完結)させるための大きな力となるはずです。ですから「助けるとは自分が助かることだ」と敢えて申し上げる訳です。

             

            このような話は霊的には、やや「奥義」に属するものと言えます。何故なら「どうせ助かる奴は助かるんだから、別に俺がやらなくたっていいや」などと都合よく解釈する「不逞の輩」を助長することになり兼ねないからです。

            しかし「霊的実相」を以ってすれば、物事に「偶然(遭遇する)」などは無く、すべては必然であるとの理解を以って「私たちの心と行ないは常に秤にかけられている」ということだけは忘れないで欲しいのです。

            | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 11:53 | comments(0) | - |
            「物事の本質」について
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              人間が様々な事柄に対応して行く上に於いて最も重要なことは、まず「物事の本質」を見極められるかどうかだと思われます。何故なら「見当違い」の考え方や行動による無駄な努力や無意味な行動、自らにとって有害無益な諸々のイメージやアプローチの全ては、「物事の本質」を理解しないところに生ずるものだからです。そしてそれらは後日、「道を誤った」「失敗した」「無意味だった」「全ては虚しい」などの袋小路へと自身を追い込んで行く事となります。

               

              人間が意識しようがしまいが、人生には自ずと「スタートとゴール」が有り、生きるとはその「道程」の事を指します。そこで前述の様に「見当違い」が生ずると、人間の足取りはその時点で必ず「停滞」します。一見時間が流れ、物事は進んでいるように見えても、それは自分が進んでいる事を意味するものではなく、周りが進んでいるだけであって、人間が人生に於いて「歩を進める」という本当の意味は、「責務を遂行すること」に他なりません。従って「見当違い」を起こし「責務」を見失った状態にあっては、如何に時が経過し、状況の変化があろうとも、その人は「見当違い」が解消されるまでの間、その場で「停滞」し続ける事となります。

               

              私の知る限りに於いて、数十年間同じ場所に「停滞」し続けている人などザラにいます。このように人間というものは、いったん誤った固定観念に毒されてしまうと、むしろ「停滞から復帰すること自体が至難の業」となってしまいます。そのような人の頭の中では「何十年も前の他人とのわだかまり」が、まるで昨日の事の様に鮮明に繰り返し再現されていますが、実はそれ自体が「停滞している証拠」であって、健全な精神を持っている人の場合、何十年も前の記憶にそのような「生々しさ」は有りません。

               

              ところで「物事の本質」と聞くと、それだけで難しそうに感じる事自体が勘違いであって、実際には(知ろうとすれば)誰にでも解るものであり、また「誰にでも(子どもにでも)解る話」でなければ困るのです。何故なら、それは全ての人々に必要なことだからです。

              因みに「物事」とは、私たちが関わる自然や人、人為的社会的な事物、事象、現象、傾向、知識、情報、構造、関係性など、およそ認知可能なあらゆるものという意味です。

               

              しかしそのように多岐多様な物事の「本質」という意味では、おおまかに言えば「真理に直結したもの」或いは「真理と接点を持つもの」か、そうでなければ「真理と無関係なもの」または「真理に対して悪意を抱くもの」ぐらいしか有りません。(少なくとも私たちが歩を進める上では、その程度の理解で必要十分という意味です。)

              つまり私たちは日々生活を送る中で、(ほぼ無意識に)必ずこの内の何れかと関わり、なおかつ適切な対応を求められている事になりますが、それは言い換えれば「人生とは対応の連続」であり、それそのものが「責務」であるということです。

               

              最後に、では「真理」とは何かという事ですが、私たち人間にとっては(端的に言えば)「あらかじめ霊界に用意されているもの」となりますが、例え「霊界」の事が解らなくても知る手立てはいくらでも有ります。

              そのひとつとして「自然界」に見られる調和とバランスが有り、自然界の営み自体がどこを切り取っても「真理」によって裏付けられている事が解ります。

              もうひとつは「人間性」です。こちらの方は残念ながら(数としては)だいぶ失われてしまいましたが、幼い子どもたちの「純粋な心」「優しい心」「素直な心」「明るい心」「前向きな心」はまだまだ健在です。あのまま大人になれれば良いというイメージで「子どもたちからしっかり学んで頂きたい」と心底思います。(私はそうやって学んでいます。)

               

              「悔いの無い人生」とは一重に「停滞しない人生」のことです。(霊界は日本人の76%が停滞していると見ていますが、ここから子どもの数を引いたら大人はほぼ壊滅状態ではないでしょうか。)

              | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 12:35 | comments(0) | - |
              近い将来「価値観」が180度逆転します。
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                社会には様々な価値観が存在していますが、その中でも民族的特徴や風土的特色、国や地域社会の歴史的経緯や周辺との関わりなどにより、社会の中に「大方に依る一定の合意」即ち「固有の文化」が形成されて行くものと思われます。

                しかし「文化」は必ずしも前述の様に「合理性」に基づいた自然発生的なものばかりとは限らず、「支配者や権力者」たちの都合の良い方向で意図的に作り出される事例もまま有るように思います。それらは当初は「降って湧いた様な話」で明らかに異質なものであっても、やがて徐々に拡がり(広まり)を見せ、いつの間にか周り中その色合いで塗り尽くされてしまえば、人々はあたかもそれが「合意のもとに自然発生的に形成されたもの」の様に錯覚させられてしまうことでしょう。

                それについては「リテラ」に(ディズニーに関する)興味深い記事が掲載されています。

                記事はこちら→ http://lite-ra.com/2016/11/post-2672.html

                 

                一般的には「物の価値」は社会的合意によって決定付けされている様に思います。それは単純に「需要と供給」の関係で、そこでは需要が多いということ自体が「価値が有る」ことを示し、更になおかつ供給が少ないものを「価値が高い」などと評します。

                食品や衣類、住居など「生きるために必須のもの」であれば確かにそうでしょうが、それではディズニーランドやスポーツ観戦、映画や演劇、コンサート鑑賞、海外旅行や世界遺産巡りなどの「価値」とはどのようなものなのでしょうか。(これらは生活必需品目では有りません。)

                 

                よく考えるとこれらの「心の栄養?」とでも言ってのけられそうな需要は、スポンサー広告やテレビ番組による特集、またはニュース番組のトピックスなどメディアを駆使した「誇大な広告宣伝」の効果として生じています。(ゲームや○○ブームなど「トレンド」と言われるものの大半がそうです。)

                ですからそれらを「文化」や「社会的合意」とするのは正確には誤りであって、実際にはごく限られた人たちの限られた目的による煽動、喧伝によって「意図的に作られた需要」であり、もたらされた「価値観」と理解するのが正しい様に思われます。

                 

                何故なら、これらの何れにも本質的に「心の栄養」となり得る要素は乏しく、むしろ「自己満足、ストレスの捌け口、束の間の現実逃避」的な効果ばかりが際立つからです。(「心の栄養」とは、自らの人間性、社会性を向上させ、それを実生活や実社会に反映させ得るだけの学びの要素が不可欠で、単なる「リセット」のことでは有りません。)

                例えば、何故ディズニーランドに行くのかと問われれば(大人の場合)「リセットが必要」というのは、海外旅行やその他の趣味でも同じでしょうが、では何故リセットの必要が生じるのかと言えば、おそらく「自分がこんなで世の中がこんなだから」という答えにしかならないでしょう。

                しかし「自分と世の中がこんななのはどうして?なんか変じゃない?」というところまでは中々思いが行き届かないのが現実だと思います。

                 

                これまで私たちは社会の「表の顔」しか知らされていませんでしたが、ウィキリークスやユーチューブなどを初めとする様々な情報の入手手段によって今後は「表の顔」と「裏の顔」を同時に知り得る機会が多くなっていくことと思います。(それは同時にメディアの歴史的、構造的な欺瞞性が証明される結果ともなります。)

                その上で(社会的通念として)「全てに於いて表の顔はインチキで裏の顔が真実だ」ということにでもなればそれに伴い、当然物事の価値は180度逆転します。

                 

                それらはそれぞれ科学的な方法で立証され、二度と元には戻らないでしょう。そしてそこから私たちの理想とする「みんなで良くなる、みんなで良くする社会」が始まるということです。

                 

                 

                 

                | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 09:13 | comments(0) | - |
                何のための変動、変化なのか?
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                  このブログの主旨はもとより今を生きる子どもたちや若者たち、そして将来生まれてくる子どもたちが理不尽に苛まされる事なく、みんなが幸福に暮らすことの出来る地球環境、社会環境をみんなで作りましょうと呼びかけるところに有ります。

                  もちろん子どもたちの「直近の問題」に対する緊急的なサポートも大切ですが、それとて「元々根の深い問題」に対する本質的な改善には遠く及びません。(それこそ「焼け石に水」のような対策こそ大人の自己満足に過ぎません。)

                   

                  しかし現実には「大人」と言えども大概の人々は社会の中で「個」として独立した行動が取れる訳ではなく、時々の社会的規範や社会的風潮に準ずる形で生きています。(それこそ相当に行き辛いと感じていても、そこから逸脱するよりは良いという「二者択一的判断」のもとに耐えています。)

                  そのような生き方が「悪い」とは申しません。何故なら人間は「社会的な生き物」であって社会に順応することで安心を得ようとする事自体が間違いとは言えないからです。しかしそれとは別に自分や家族の安全を考えた時に、常にセンサーを十分に働かせておく事は絶対に必要です。(ちょうど群れで生息する野生動物が個々に山火事や猛獣の匂いを嗅ぎ分ける必要が有る様に。)

                   

                  例えば「詐欺」の被害に合わないためには「自分の思いや考え」以前に「詐欺被害に合わないための様々な知識やアドバイス」を自らの意思で受け入れる必要が有ります。一人ひとりが(自分を守るために)そうした話に耳を傾け意識を高める事が、結局は(詐欺犯罪から)社会全体を守る事に繋がります。

                  社会と個人とはそういう関係であって、決して「誰かに丸投げのお任せ」で良いというものでは無いということです。

                  このように、現状の私たちの社会は「良いもの」と「悪いもの」が渾然一体となって社会が形成されていますが、一人ひとりがセンサーをしっかりと働かせ、他者の様々な考えや意見を良く聞き分けて「良いものを増やし、悪いものは減らそう」という意識をきちんと持つだけで「立派な社会貢献」であると私は思います。

                   

                  さて、前置きが長くなりましたが、社会では特にリーダーシップを発揮するようなタイプの人や、よほど困窮の際に立たされた(もはや失う物は何もないといった)状況の人以外は総じて「保守的」で「現状維持」を望むかも知れませんが、問題は「現状認識」と「先見の明」がどこまで及ぶかということに尽きると思います。

                  例えば今や「大地震が30年以内に起きる」という話(学説)は定説とされるまでになっていますが、これも「現状認識に基づく先見の明」のひとつと見て良いと思われます。それと同じ様に「見る人が見て、知る人が知る事」の中に、私たちが「それに対する備え」を必要とするものが幾つか有る様に思います。(核兵器保有国の国民は既に核戦争への備えを行なっています。)

                   

                  もはや「近視眼的な視野で都合の悪い事は考えないようにする」という時代は終わっています。これからは「少々都合の悪い事でも(将来のために)積極的に考えて備える時代」です。何故なら(既成概念の崩壊も国々の混乱も地軸の移動も地殻変動さえも)それらは「霊的」に規定された必要な変動であり変化と言えるからです。(もし「誰に必要か」と問われるなら「私たちすべて」と答えるのが良いでしょう。)

                  | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 09:44 | comments(0) | - |
                  変動、変化の兆候
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                    今年も残すところ2ヶ月を切りましたが、(年明け早々の予測通り)世の中の「変動、変化」の兆候が限りなく見受けられる様になって来ました。そのように書くと、まるで人々の不安や恐怖心を煽っているかの如くですが、そういう意味では無く「世の中の間違った仕組みや外れた箍(たが)」や、何より「人々の勘違いや思い違い」が正常な方向へと修正される為の「必要な流れ」であると思えば、それらは(利権に固執する一部の人々を除けば)誰にとっても悪かろう事ではないはずのものです。また、世の中に対する従来の考え方や仕組みでは(様々な意味に於いて)「もう後が無い」ということも(実感が有ろうが無かろうが)事実なので、私たちとしては(地震に対する備えの如く)あらゆる変動、変化に対する「(心の準備も含めた)受け入れ体制」を整えておく事こそが賢明と思う次第です。

                     

                    例えばアメリカという巨大国家が消滅するなどと、今の今まで誰がイメージすることが出来たでしょうか。(それは冷戦時代に於けるソヴィエト連邦の時もそうでしたが)しかし、ここに来てそのような荒唐無稽な話さえ「二大政党制の崩壊、グローバリスト対愛国主義者、不正選挙、内戦、核戦争・・・」など、幾つかのキーワードを列挙することで、俄に「現実性」を帯びて来ました。(注:消滅=核で蒸発という意味ではなく、国家の形態が変わるという意味です。)

                     

                    「霊的」に規定された事は誰にも止められません。(仮に悪魔であっても。)また、敢えて止めようとする必要もないでしょう。何故なら、それらはすべて「誰にとっても良い事」であるはずだからです。ですからその場に及んで「どうしてもそれを止めたい」と思えたとしたら、自分の何か(どこか)が間違っているとして「自分を顧みる機会」にすれば良いと思います。(運が良ければまだ間に合うかも知れません。)

                     

                    霊界は「人間個々の意思を最大限に尊重」します。しかし同時に必要とあらば(意思と無関係に)人間を操ります。そんな事はそれこそ「朝飯前」です。ですからその意味で霊界が「人間に手を焼く」というような事は有りませんが、「操らなければならないという事」自体には非常な悲しみを覚えます。何故ならそれは、もはや「(誇れる意思を持つような)人間らしい人間の姿」とは言えないという事だからです。(それは「生みの親」としては忍びない事に違い有りません。)

                     

                    私たちは「自らの意思」によって誇れる行ないを持ちたいと思います。

                    | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 11:54 | comments(0) | - |
                    基本は「共有」という価値観です。
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                      昨日に引き続き、当ブログにアクセスされた方々の「検索キーワード」のお話です。

                       

                      まず、「思想を持つにはどうすればいいの?」との事ですが、人間は(当人が無自覚であっても)必ず「無思想」などということでは無く、何らかの「思想」に基づいて生きています。例えば「自己中心思想」などもそれなり十分に「思想」と呼べるものです。思想は「主義、主張を生み成すための大元の価値観」と言い換えても良いでしょう。

                      ですからこちらのキーワードの意味する「思想を持つには・・・」の「思想」とは、幸福な人生、または有意義な人生を送るために必要な思想(=価値観)、ということだと思います。

                      それについては、本質的には「霊的責任」を理解することが一番ですが、もし現実の社会に照らして見るなら、人間は何事に依らず「共有する」ところに意味が有り、その先に「本当の幸福が在る」という道理を学び、理解することだと思います。

                       

                      また「他人が大人を作る」というキーワードですが、言い換えれば「人間は多くの社会的経験や人間関係を重ねる中で本当に必要な人間形成が為されるもの」ということだと思います。しかし(それが事実だとしても)そこには2つの課題が有ります。

                      一つは、同じ「社会でモマれる」にしても、どういう社会のどういう人間たちの中でモマれるかによって、その意味合いが変わってきます。

                      2つ目は、同じ経験をしてもそれが「ポディティブに働くかネガティブに働くか」に別れるほど、人によって受け止め方に差が生じる場合が有るということです。

                      これら2つの問題に効率的に対処する上でも、本格的な社会参加の前に最低限の「基本思想」だけは押さえて置きたいと思います。それは常に「自分も含めてみんなで良くなろう、みんなで良くしよう」というものです。

                       

                      結果的に上記2つのキーワードに対する答えは「どちらも同じ」と考えて良いと思われます。このように人間の幸福に最も必要なものは「共有」という価値観であることが判ります。

                      | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 09:39 | comments(0) | - |
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