青少年の何でも書き込み寺 (大人も可)

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問いに対する答えは自然環境に在る
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    人間がこの世の構造的理解として「霊界の存在」を認めるか否かは、人間が「自分の心の存在」を認めるか否かと、ほぼ同レベルの話と見て良いでしょう。もし内外の刺激(=情報)に対する生物的反応形態としての意識とは別に「人の心」の存在をも認めるというなら、既にその人は「霊界の存在」を否定する理由を持ち得ません。何故ならそれらは共に「目に見えず、自分の意識で自由に制御出来る代物ではない」からです。

    このことは非常に重要で、私たちの人生観を確実に左右する問題であって、故にそれについて私たちは早急に態度を決する必要が有ると思われます。(ものの1分も有れば答えは出せるでしょう!)

     

    そこで次に、この「霊界」なるものが私たちにとって「善意」として働くものであるのか、それとも「悪意」として作用するものであるのか見極める必要が有るかも知れません。何故なら「霊界の存在」を認める、受け入れるという事は、自ずと「霊界の意向に従う」ことを意味するからです。つまりそれは私たち人間がイメージする「自由(または勝手気まま?)」を制約されてまで、それに付き従う価値を感じる事が出来るか否かという問題です。(価値を認めないものを受け入れる事など、誰にも出来ないはずです。)

    果たして「霊界」が私たちに示している「価値」とはどのようなもので、私たちはそれを感じて受け入れる事が出来るのでしょうか。

     

    実はその答えは、私たちの身の回りの「自然環境」の全てに在ると言うことが出来ます。それらは「人間そのものと、人間が作ったり人間の手が加えられたもの以外の全て」と言えます。しかし何故この「ありのままの自然」が「霊界の意思、意向」を指し示している事になるのでしょうか。

    それは一つには、それらの自然環境を現存させる為に、どれだけの叡智と歳月と手間が掛かっているかを想像、と言って悪ければ検証して見れば解ることです。

    そして二つ目には、これら自然環境には一貫したテーマが見事に描き出されているということです。そこではバランス、調和、共存、共生、連携など全体として非常に高度な営みが日夜行われていて、それによって緻密な自然環境が保たれています。

    三つ目には、そうした「自然環境」を人間が何と感じ、受け止め、そして現実にどういう意味合いと認識しているのか、ということがあります。確かに「自然」は脅威と感じられる面もありますが、全体として私たちはそれらを「美しい」と感じ「必要」と思い、「大自然の恵み」という言葉に表される如く、人間の生存に不可欠のものであることは間違い有りません。

     

    「自然」というものは、知れば知るほどそれが考え抜かれた緻密で巧妙な仕組みに支えられた「創造物」であることが解ります。そしてもしそれが「霊界の意思、意向」であるのなら、いったいどこをどう解釈すれば私たちがそこに「人間に対する悪意」を見出すことが出来ると言うのでしょう?

    | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 10:35 | comments(0) | - |
    霊界の存在を認めるとどうなるか
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      例えば「宇宙の創生」や「生命体の誕生」を「偶然のいたずら」として捉える事は(それでもかなり無理は有りますが)不可能とまでは言えないかも知れません。また、そこまでのゴリゴリの唯物論者でなくとも「神や悪魔」を勝手な都合の良いイメージで認識するなどして、実相から大きくかけ離れた世界観を持つことであれば、更に容易(たやす)く出来るはずです。

      そしてこれらの話に共通する事と言えば、何れも「霊界」という概念が存在しないか、もし有っても希薄で漠然としたものでしかない、ということです。つまり図らずも「霊界という概念」を忌避するところに人間的自由?(=好き勝手)が許されている感があります。

       

      しかし自由を謳歌することはともかくも、真に私たち(の幸福な人生)にとって必要な事は、本当のこと(=真実、実相)を知ることであり、それに基づく幸福な生き方の正しいイメージを持つことではないでしょうか。そしてその鍵を握るのが「霊界の存在」ときちんと向き合う事に他ならないと思われます。何故なら「霊界と現界」或いは「霊と体」といった異質な要素による「複合構造」は、そこに「明確な意図」が存在しなければ決して存在し得ないものであり、また安定的に維持管理されるはずもないものだからです。

      それは私たちが「霊界の存在」を認めた瞬間に、同時に自分たちが「明確な意図に基づく絶対的な管理下」に置かれている存在であることを(嫌が上にも)知るという意味を持ちます。

       

      このことを逆説的に表すなら、もし人間が「好き勝手な振る舞い」をしたいのであれば「決して霊界の存在を認めてはならない」ということになります。ですからそのような人々は必ずと言って良いほど「唯物論者」であるか、或いはその教義が霊界に即しているとは到底言い難い、ほとんど社会運動化した「宗教団体」を標榜しているはずです。

      また一見「霊的」であるかのように見えても、その実構造的理解に程遠く「神がかり、霊がかり、透視眼、念力、予言」など、パフォーマンスを売りにするだけの場合もそこに含まれます。何故なら「構造的理解に裏付けされた上質の基本思想」無くしてパフォーマンスのみが突出する事自体が通常起こり得ないことだからです。

       

      「霊界」を受け入れようとする際、中には「自由がない=面白くない」などとすぐに考えてしまう人も少なからずいるかも知れませんが、それは私たちの社会生活とて同じで、憲法や法律、また周囲との決めごとの範囲を逸脱して良い事にはなっていないはずです。また、社会では「それ故護られている」という面も大きく、そこも社会も霊界も変わりません。

      せっかくなので私たちはこれを機に「自由とは何か」について、もう一段見識を深めて見ては如何でしょうか。

       

      | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 10:22 | comments(0) | - |
      人間の体内に仕込まれた「時限爆弾」
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        誰が仕込んだのか・・・自分自身です。(未解決の自分の過去の過ちはすべて霊細胞として蓄積されます。)

         

        それは何のためか・・・それは本来、人間に未解決の過去の過ちを都合よく忘却させないための仕組みです。

         

        それがあるとどうなるのか・・・折りに触れて不快な過去の記憶を蘇らせ、本人を不快にさせます。

         

        どうすれば完治するのか・・・過去の過ちを認め、悔い改めるべく「贖(あがな)いに勤しむ」事で解決します。

         

        「贖いに勤しむ」とは?・・・既に手の届かない過去であれば、現在の類似の案件によって過去の過ちを精算出来ます。

         

        「贖わない」とどうなるのか・・・類似の案件が生じる度に同じ過ちが繰り返され、単純に「過ちが加算」されて行きます。

         

        「過ちが溜まる」とどうなるのか・・・想念の悪化が進み、不快の念が常態化することで、徐々に「贖い」が困難となって行きます。

        ※日本人の成人の85%はこの状態と考えられます。(つまり自分で自分の統制が上手く取れない人たちです。)

         

        「過ちが更に溜まる」と?・・・膨大な未解決の過ちが行く手を阻んで物事が進まなくなり、その原因を他人のせいにします。

        ※他人のせいだと思っている内の99%は自分の(未解決の過去の)せいです。

         

        「最後」にはどうなるのか?・・・自らストレスにより心身を疲弊させ、思想の劣化により自己の運命を破壊、つまり「自滅」します。

        ※但しそれが即「肉体の死」を意味するかどうかは(霊的意向もあり)別問題ですが、何れにせよ「自らの手で自分の未来を閉ざす」ことになります。

         

        「過ち」を持たないためには・・・今々に「人間らしい心」を持って誠実な気持ちで「ベストを尽くす」だけの事です。

        ※過去を精算しなければ現在を現在として生きられず、現在を現在として生きない限り未来は有りません。それが霊的常識です。

        | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 11:26 | comments(0) | - |
        安倍政権のハチャメチャ振りが「正論」の起爆剤に?
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          ※当ブログに於ける「正論」とは、経験則や感情論ではなく「物の道理」に照らして物事を理解する在り方を指します。

           

          私たちは戦後一貫して、その時々の政権によってミスリードされ続けてきたと言っても過言ではなく、現在の日本の状況がそうした結果の表れであることは間違い有りません。ただ「安倍政権」以前のどの政権も、それなりに国民の顔色を窺いながら適当に機嫌を取りつつ、騙し騙しそれなり上手くやってきたという面は否定出来ません。(だから「何だかんだと言われつつも自民党」という評価に結び付いていた訳です。)

           

          ところがここに来て、そうした謂わば伝統的なスタンスが「安倍政権」によって一気に覆されてしまったということです。それは「現実に即した政治」とはとても言い難い、ほとんど個人的とも言える「自らの夢想や願望を無理矢理実現させよう」といったやり方(=独裁)に極めて近いものであったようです。

          当然ですがこれでは「その時の安倍晋三の眼中に無い人々」にとってはタマッたものでは有りません。「安倍政権による政治」はこのように、既に多くの(眼中に無い)国民に大きな犠牲とリスクをもたらして来ました。これは極論を言えば、これまで「国民不在の政治」を堂々と行なってきた結果であって、そのためには(場合によっては)天皇でさえも蔑(ないがし)ろにするものでした。

           

          その中身たるや、別に日本が現時点でことさら弱い訳でもないのにやたらと「強い日本」にこだわり、果たしてアメリカに追従したいのか、アメリカと肩を並べたいのか、はたまたアメリカを越えたいのか、(そんな真意はどうでも良いのですが)傍目(はため)には「ナメられてたまるか!」のような子どもじみた話にしか見えません。しかしそんなコトにうつつを抜かしているために経済、外交、福祉、教育など、あらゆる政策に齟齬が生じ、国民生活が逼迫(ひっぱく)させられていることは事実です。こうなると本当に「頼むから勘弁してくれ」という感じです。

           

          さすがに政治がここまでヒドくなると、世の中には「正論」の風が吹き始めます。それはちょうど「現政権」との対立軸としての位置関係となりますが、裏を返せばそれは「安倍政権はそこまで(=正論を持ち出さなければならないほど)悪いのか」という話になりますが、実際「そこまで」悪いのです。ただマスコミが恫喝(と懐柔)をされてそう言えないだけです。

           

          皮肉にもこうした「正論」が息を吹き返し、市民権を得るまでにその声が高まってきたのは「安倍政権」の唯一のお手柄かも知れません。改めて考えるまでもなく、政治家に一定の「人格や品格」が必要となる事など当たり前の話では有りませんか。何せ国民が命と生活を預けることになる訳ですから。

          従って私たちはこの先「正論」に照らして社会の様々な歪みを修正、修復或いは再構築して行く必要が有ります。(それを今すぐ、今日から始めるべきです。)

          | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 14:06 | comments(0) | - |
          社会の趨勢は既に決まっています。
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            それは国際社会も日本社会もそうだと言う事であって、この「霊的が深く関与する流れ」を変えることは誰にも出来ないでしょう。(それは決して悪い意味では有りません。)ただ(幸か不幸か)こと私たち自身の趨勢に至っては未だ「私たち自身の手中」に有ります。ですから今最も重要な事は、必然的に「私たち自身が(既に決まっている)社会の趨勢とどのように関わって行くか」ということになります。

             

            私個人としては「漫然と受け身で過ごす」というのは得策でなく、出来うる限り積極性を持って流れに賛同し、そして「関わりの中でベストを尽くすべき」だと思います。但しそれは「全ての人々に共通する心の在り方」を示したものであって、具体的なアプローチの形態は人それぞれ千差万別であるのは(その人の現在位置や諸条件を鑑みれば)むしろ当然の事と言えます。

             

            つまり私たちに残された課題は「今後どういう心で生きて行くか」ということに集約されているように思います。何故なら、あらゆる社会的問題の原因は「人間性の喪失に基づく人格の崩壊」であって、それは別の表現をするなら「ズルさの横行」に他ならないからです。

            これらは「社会の構造論理」から見れば、極めて反社会的な思想及び発想と言えます。つまりこれまで(長きにわたり)私たちの社会は(信じ難いことに)「反社会的思想に席巻されていた」ことになり、悲しいことに私たちの多くは(歴史的に)「それが社会(世の中)というものだ」と思わされてきたということです。

             

            しかしここに来て「霊界がようやく重い腰を上げた」と(表面的には)見て取れる動きと流れが生じており、それに伴う「価値観の逆転現象」が始まっています。ところがそれも良く考えて見ると、そもそも「反社会的思想に基づいた社会」自体が「逆転現象」であった訳ですから、単にそれを元通りに戻すという意味であることが解ります。

             

            それについては「何故今まで反社会的思想が(霊的に)容認?されてきたのか」また「何故このタイミングで(霊的主導で)価値観を逆転させる必要があるのか」など、それぞれに「論理的な説明」も可能と思われますが、更に長くなるのでそれはまたの機会に譲りたいと思います。

            何れにせよ、人間性が最も重要視される社会が「私たちの望む社会」だということです。

            | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 13:28 | comments(0) | - |
            当ブログの更新は間もなく終了します。
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              4月も今日で最後となり、明日からいよいよ5月です。というのも、当ブログはこの5月半ばまでを更新のリミットとしているからです。それは、当ブログの体裁と記事自体はその後も「必要な日数」は残して置きますが、新規の記事のアップは行われないだろう、という意味になります。などといきなり言われても、皆さんには何のことだかさっぱり分からないと思いますが。

               

              今までも折りに触れて書いてきましたが、当ブログの主旨は「霊界の意に沿う」ことです。それは「霊界と現界からなる構造的理解」並びに「原因結果の法則に照らした個々の事象の認識」に基づく限り、それが私たち人間を幸福へと向かわせる方向性の唯一無二の選択肢であることは明らかであるからです。(興味のある方は適当なキーワードで「ブログ内検索」をご利用ください。)

               

              私個人として思うことは、これは「霊界」を信じる人にも信じない人にも言える事として、どうにも気になるのはその「バランスの悪さ」です。これは別の言い方をするなら「この世の事にのめり込む」または「あの世の事にのめり込む」という生き方に違和感を感じない人が余りにも多いということです。

              結論から言うと、これはどちらも正しく有りません。(と言っても「のめり込んでいる」自覚すら無いでしょうが。)実際には双方が互いにフィードバックを重ねながら物事が進んで行く訳ですから、肝心な事は「どちらも大切にしながら均衡を保つ」ことであって、そのためには常に「沈着冷静に事態を把握する」心の構えが不可欠になります。(それは感受性を正しく働かせるためです。)

               

              今まで何度か書いてきたように、すでに「霊界のプログラム」は発動し、作動しています。そしてそれはこれまでに無く大規模な修正や調整を目的としたものと認識しています。

              その中で私たちが考えるべきことは、まさに「自分がそうした(時代の)流れや動きとどう関わるか」という一点に尽きます。そしてその結果次第では(世の中ではなく)私たち自身の人生が場合によっては180度変わってくるということなのです。言い換えれば(全ての人にとって)「今が正念場」ということです。

              | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 10:33 | comments(0) | - |
              自民党の面々は「自滅パターン」の見本市か
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                案の定、発狂?した自民党二階幹事長の常軌を逸した発言に対して党の内外から批判殺到だ。今村前復興相の場合もそうだが、このように誰が見ても「それはおかしいだろ?マズいだろ?ダメだろ?」というような言動を、本人だけがまったく無自覚に堂々としでかしてしまうのが「自滅パターン」の典型的な特徴だ。

                何故そんなことになってしまうのかと不思議に思われる向きもあるかと思うが、これは「霊的」に理解すればたいへん解りやすいが詳細はここでは割愛する。(興味のある方は過去記事を参照のこと。)

                因みに「自滅パターン」とは、本来であれば自己の問題点に対して内部的に理解と改善を促す(建設的)仕組みが、本人の度重なる無自覚、無理解からなる「問題放置」によって、逆の「破壊的作用」を及ぼすこと。

                 

                こういった「自滅パターン」は自民党総裁である安倍総理からしてそうであり、つい数日前まで国民に対してあれだけ「切迫した北朝鮮の脅威=朝鮮半島有事」を煽っておいて、もしそれが本当であったなら到底「外遊」どころではないはずだ。(現在外遊中・・・。)それこそ今頃、官邸地下の緊急対策室でヘルメット被って指揮を取っていなければおかしいのではないか?

                この調子でやること為すことのすべてが、もはや誰の目にもインチキ臭くしか映らないことをお構いなしにやってのける感覚は、既に重度の「自滅パターン」としか言い様がない。だから「すべては森友隠し、加計隠し」という腹の底が丸見え状態にも関わらず、本人の中では「上手くいってる」という感覚しか持ち合わせがないのだ。

                このように「まったく自分を守れていない」のだからこの人も「終わる」しかないだろう。

                 

                余談になるが、森友問題は現在進行中で次々に新たな証拠が提示されており、事実上「総理夫妻」は絶体絶命の危機的状況にあると言って良い。

                | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 09:33 | comments(0) | - |
                苦手意識の克服とは
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                  人間には元々個人的傾向として「好きなものと嫌いなもの」或いは「得意なことと苦手なこと」が有り、それぞれの傾向に対して自分自身がどう向き合うかが非常に重要となりますが、それは目的や目標の持ち方によって異なると言えるでしょう。

                  特に目的が「人格の形成」であった場合、「好きなものと得意なこと」は放っておいて良いでしょう。そして貴重な時間を費やすなら「嫌いなものや苦手なこと」により注目する必要が有ると思います。

                   

                  ここで一つの反論があります。それはおそらく「好きなものや得意なこと」こそ伸びしろが期待できるから、そこに打ち込むべき」というものだと思います。もちろんそこにもそれなりの道理は有りますが、その考え方は基本的に信頼出来る「分業システム」の存在と稼働を前提としたものです。つまり「誰かの能力の偏りを別の誰かが補う関係性」を想定しなければ成り立ちません。

                   

                  そもそも「人格」というものは「偏りを容認出来ない性質」のもので、しかも他人を当てにせず「自己完結を目指す性質」のものですから、必然的に「バランスと安定」をイメージしながら努力することになります。そうなるとどうしても精神的、実務的な双方の面で「アンバランス」の原因となる「苦手意識の克服」に力が注がれることとなり、それによってバランスの良い安定感のある人格、即ち「人格の向上」が実現可能となります。

                   

                  但し荒業としては確かに「自分の短所を一切気に止めず長所だけをひたすら伸ばす」という方法も存在するのは事実です。しかしその場合も「一定の境地」に達した後は、やはり「短所(=苦手意識)」に戻って克服に着手することになります。

                   

                  しかし今の時代、このような「人格の向上」を目的としたノウハウの話をいったいどれだけの人たちが必要としているのか、甚だ疑問と言わざるを得ません。

                  「人格の向上」は霊的に見れば「霊層の向上」ひいては「運命の向上」を意味し、人生に於いてこれほど重要な目的は無いのですが、それを抜きにしてどのように「無難息災」を望めば良いのか、私にはよく解りません。

                   

                  | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 10:57 | comments(0) | - |
                  人間を頂点とするイメージの限界
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                    よく「宗教と科学」などとして、両者を対比させたりしますが、おそらく大半の科学者は「神」を信じています。何故ならこの世のあらゆる物事を(真面目に)探究していくと、すぐに「或る壁」にぶち当たり、同時に「或る思い」が心をよぎるからです。そしてそれがこの世の偽らざる実相であり、この世の真実だということです。(逆に人間が時間を弄して頭でこねくり回す理屈に真実は有りません。)

                     

                    (科学者を含む)真面目で有能な探究者たちは率直に思います。それは「物事が自然の成り行きだけでこんなに上手く構成され、形作られるハズがない」というものです。取り分け過去に比べれば探究能力が飛躍的に向上した現代では、多くの人たちが正に「科学と神秘の境界線」が崩れ去る感覚を体験することとなるハズです。

                    これは物理学や自然科学に留まらず、(始めから人為的なものを除く)あらゆる分野の探究に共通することと言えます。(例えば、音の性質に由来する音楽や、色や形状を扱うデザインなど。)

                     

                    このように人間が直感に従おうとすれば、それは「神」を認める方向性となるに違い有りません。そして元来、人間には「それを拒む理由が無い」というのが正しい理解だと思います。では果たして人間の中で(直感に反し)「神を認めたくない」方向性をもたらす要因があるとすれば、それはいったい何なのでしょうか。

                     

                    それは一重に「宗教」と呼ばれる組織的社会運動の功罪に他なりません。以前にも記事にしましたが、宗教の意図するところは「社会的影響力を手中に収めるためのマンパワーの結集」にあり、その意味では他の社会的、反社会的なあらゆる「団体、結社」の概念と変わるものではないということです。そうなると当然「認める、認めない」という選択の対象となることも頷けます。

                     

                    ここで改めて言っておきますが、人間が心の中に「神を認めイメージする」事と「宗教を受け入れる」事とは何の関係も有りません。

                    神を信じるとは「信仰心」の事であって「謙虚で素直な生き方の裏付けとなる心」の事であり、世に言う「宗教」とは本来、異質で無縁のものです。

                    | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 09:39 | comments(0) | - |
                    私たちは当たり前の世界に戻ります。
                    0

                      「物」というものは、それが仮に生活する上での必需品であっても、そのもの自体が「無尽蔵」であることが分かっているなら、ただ同然の値段で得ることが出来たとしても何の不思議も有りません。

                       

                      しかし例えば「金(ゴールド)」のように元々産出量が少なく、供給量が頭打ちと考えられるものでは、その需要に応じた価格設定が為される事は、これまた何の不思議も有りません。また、このように需要と供給の関係に一定の「不変性」があるものでは、価格自体もある程度「固定的」であって然るべきでしょう。

                       

                      一方で、諸条件により「生産量や産出量(=供給量)」に変動が見込まれるものに於いては、結果的に時々の「需要と供給のバランス」が変化するため、調整の追いつかない部分に於いて「価格変動」が生ずるのも、また自然なことと思われます。

                       

                      と、ここまで「当たり前の感覚」を以って「当たり前のこと」を書いたつもりです。そして、これにもうひとつの「当たり前」を付け加えるなら、「物の売り買いとは元々等価交換の認識のもとでの物々交換の代用として、価値の固定化された通貨を利用することを前提としている」ということだと思います。

                       

                      そう考えると、私たちの中では「(相対的に)お金の価値が短期間で上がったり下がったり」すること自体が、非常に違和感を覚えずにはいられません。何故ならそれは「需要と供給」に関係の無いところで「物の値段が上がったり下がったり」する事と等しいからです。しかもそれらは私たちと関わりの無いところで勝手に行われているのですから、私たちはある意味「それに振り回される」しか有りません。

                       

                      例えば村落の中で行われる物の売り買いの形態や概念が、国や諸外国という規模では通用しないとでも言うのでしょうか。そんなことは有りません。売り買いは売り買い、取り引きは取り引き、同じ人間同士の営みに違い有りません。ただ、お互い顔の見える村落の中では悪い考えを持つ人が少なく、広域になるほど、その比率が上がっているだけの事ではないでしょうか。

                       

                      ただ今になって一つ思うことが有ります。それは私たち人間が「何が当たり前なのか」を、心底骨の髄まで染み込ませるためには、それこそ(歴史的に)何千年も掛けて「異常極まりない世界」を、これでもかと言う程に体験する必要があったのかと言われれば、確かにそうなのかも知れません。

                      しかし幾ら何でも「もういい」でしょう。今や(一部の完全にイカれた人々を除けば)多くの人々が「当たり前の世界」を切望しています。

                       

                      その世界では「子どもでも分かる」簡単な仕組みで、物が売り買いされることでしょう。

                      | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 12:16 | comments(0) | - |
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