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神は「現行犯逮捕」する
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    正確には「神が人間を逮捕する」というのは正しい表現では有りませんが、あくまでも人間側の持つイメージからすると、そうなるという事で、実際には「神の定めた立法」に基づいたシステムの働きにより、100%整合性のある結果が示されることになります。

    その際、人間の目で「結果にばらつきがある」ように見えることがあったとしても、それは個々の人間が携えている何百という因縁の違いによって生ずる差異であって、それらを全て抱合した上で示される結果の正確さに於いては、凡そ「人智を超えた次元」であり、疑う余地も有りません。

    ですからその意味に於いては、そもそも私たち人間が「他人の結果を正確に理解する」ことは困難と言えますが、そうであれば尚更、本人が冷静になって、自らの身にもたらされた結果の意味を正しく理解することが是が非でも必要です。(そうしなければ明日は有りません。)

    つまり「結果をよく見て理解し、自らを立て直す」こと。それが人間が今すぐやるべきことです。

     

    ところで「現行犯逮捕」の意味するところは、文字通り「思っただけではやった事にならない」「疑わしいだけでは処罰の対象にならない」ということで、人間社会の現行法では当たり前の話で有り、考え方ですが、霊的には必ずしもそうとは言えません。むしろ「(悪い事は)思っただけでやったと同じ」というのが一般的です。何故なら霊的には「悪い思想は霊魂を確実に穢し、霊魂を穢す事こそが何よりも罪」とされるからです。

    そのため霊層段階が上がるに連れて、霊魂に対するある種の「保護回路」として、軽はずみな言動や思い違い、考え違いに対する「戒め」や「引き締め」が内部的に強化され、「気が重くなる」「胸が苦しくなる」などの結果が反射的にもたらされるようになります。それは謂わば「予備逮捕」とも言える現象で、それによって「本当の悪い結果」を未然に回避することが出来る訳です。

     

    しかし現状では、残念ながら保護回路が正常に働くほどの霊層段階に達している人の方が少数派と言わざるを得ず、多くの人たちが「現行犯逮捕」の対象となっています。つまり「目にもの見せられるまで気付かない」人たちということです。(中には「それでも気付かない」という人もだいぶ混じっています。)

    その人たちはまず、(因縁に基づいて)そのような人たちが集まる界隈に自然に引き寄せられます。そしてその中で「泳がされ」ます。その間に悪い因縁の濃密度を更に増すこととなり、そして遂には条件が整い、(自分自身に負けて)「犯行」に及び、そこで筋書き通りの「現行犯逮捕」となります。

    誤解の無いように言っておきますが、これは神がその結果を望んでいるということでは決して無く、抜けようと思えばいつでも、どの時点でも抜け出せる(回避出来る)のを、本人がそうしないだけの話だということです。

     

    話は変わりますが、昨今の世情から窺い知るに付き、「人間の堕落の温床は組織だ」とつくづく思います。人間は社会的な生きものですからして「組織に依存」するのは仕方がないと言ってしまえば身も蓋も有りませんが、それにしても「組織丸ごと堕ちて行く」というケースがあまりにも多く、逆に「個人」という単体としての価値の低さ、不甲斐なさに呆れ果てるばかりです。そういう人間に限って最後には泣き言を言うのでしょうが、今更救いようも有りません。(NHK職員諸氏、警告しましたので)

     

    どうせ通じないとは思いますが、そういう「組織命の人たち」の為に、これだけは言っておきます。

    神は組織(という容れ物)なんか実はどうでもよく、神が問題にしているのは常に「個人の価値」のみだということです。

    | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 08:51 | comments(0) | - |
    神は悪魔よりも恐ろしい
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      かつて文明が未発達だった頃、人間にとって最も恐ろしい存在は「神」であったに違い有りません。何故なら「天災」という言葉に表されるように、「噴火、地震、津波、洪水、嵐、干ばつ・・・」など、人々に壊滅的な被害をもたらす「天変地異」の類はみな、神の仕業と信じられていたからです。

      人々はそれらを「神の怒り(=天罰)」として認識し、神を怒らせないよう、注意深く生きる事を余儀なくされた訳ですが、それでも起きる時には「それを神が必要としている」ということで、せめて大難を小難で収めたいとの思いから「生け贄や人身御供」の風習が生まれたとも考えられます。

      つまり人々にとって「神」は、人智を超えた(理解不能な)未知の存在であると同時に、従うしかない「絶対的」な存在であったということで、言い換えればそれが(神によって与えられる)自然の恵みを享受して生きる人間の基本的スタンスと言えます。

       

      ところで何故人々は、そもそも自分たちの生きる糧となる「自然からの収穫物」を「神の恵み」と考えるに至ったのでしょう。おそらく、それら自然の恵みが取っても取っても一向に減る様子のない事に不思議を覚え、それこそ「減らないのは神によって供給されているからに違いない」或いは「こんなウマい話が有るのは神の仕業に違いない」と考えるのは(科学的知識がなければ)むしろ当然かも知れません。

      では科学的知識が有れば上記の話が否定されるのかと言うとそんなことはなく、むしろ逆で「いったい誰がここまでパーフェクトな自然の循環構造を作り得るのか」という次元の話になるだけで、本質的な不思議は変わりません。

       

      そこで問題は前述した「神は人智を超えた(理解不能な)未知の存在であると同時に、従うしかない絶対的な存在」という部分です。この理解があながち間違いと言えない証拠に、私たちは傲慢の限りを尽くす独裁者に対して「神にでもなったつもりか!」などと揶揄しますが、それは私たちが潜在的に持つ「神」のイメージそのものと言えるでしょう。つまり「神」は、人間に対してあらゆる意味に於いて「一方的」な存在である、ということがその認識の基本になくては、おそらく「神を見誤る」ことになるでしょう。(それに対して「悪魔」は明らかに「取り引き」の対象で、ただそれを無自覚に行っているに過ぎません。)

       

      取り分け西洋人は物事の関係性に於いて、契約や取り引き的なイメージ(give & take)を好む傾向が有るのかも知れません。しかし有史以来、古今東西「神と人との関係」がそうであった事など一瞬足りとも有りません。それが実相であり現実です。何故なら(人間の希望的観測をよそに)人間に比して神の能力が圧倒的に高いからです。そこはまさに「問答無用」の世界であり、同意を求める事すらも愚かしい限りで、増して「契約や取り引きの余地」など皆無です。

       

      「神」という計り知れない存在のイメージを、筆や言葉で端的に表わすことはほぼ困難に付き、却って誤解、曲解の元ともなるのでこれ以上の言及は差し控えることとしますが、ただ一つ言えることは「神は(見方によっては)悪魔よりも遥かに恐ろしい」ということです。何故なら、人間は「悪魔」から逃れることは出来ても、「神」から逃れることなど凡そ不可能だからです。(詳細はまた別の機会に。)

      | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 08:58 | comments(0) | - |
      85%は形骸化
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        前回のブログでも申し上げたように、この人間社会の健全な進歩、発展、維持にとって(今となっては)適切と言えなくなってしまった多くの「(人を含む)形在るもの」の内部的な「瓦解、崩壊」が急速に進行した結果、それらの「形骸化」が(霊的には)既に85%に達していると思われます。

        これは言い換えれば、私たちの社会に常に内在していた「明確な反社会的要因(=人、組織、思想、システム等)」の化けの皮が剥がれる、或いは剥がされる事に依って、その存在と意図とが「誰の目にも明らかにされつつある」ことを意味します。

         

        例えば、社会全体から見れば「たった一握りの反社会性を持った人々」によって構成され、存在し続けてきた「巨悪」と言えども、その存在を可能とする絶対条件は、何れも「正体がバレないこと」に尽きます。その鉄の結束と完璧な秘密主義が内部崩壊を起こし、ほぼ失われてしまった状態が現在ですから、当然存続は不可能となり、近い将来淘汰の憂き目を見ることは間違い有りません。

        これは「善悪」といった抽象的な概念を持ち出すまでもなく、より現実的な「社会性、反社会性」という具体的イメージで十分理解出来る話でしょう。

         

        昔から「悪いもの、怪しいもの」の喩えとして「叩けば埃が出る」というのが有りますが、昨今のそれは叩くまでもなく「押せばすぐに崩れる」ほどに形骸化が進んでいますから、その気になれば見誤る心配は有りません。

        こちらの身の安全を図るためにも、少しでも不審に思ったり不安を感じたりしたら「指で軽く押して見る」のが良いかも知れません。(正体はすぐに判明します。)

        より多くの人たちがそのような理解と心構えを持つことで、「形骸化した紛らわしいもの」は自然な形で社会から姿を消して行く事となるでしょう。

        | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 09:15 | comments(0) | - |
        屍の累々と居並ぶ世界!
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          これは近未来の世界の惨状を予言した言葉でしょうか?いいえ、そうではなく「見る人には見える現在の世界の惨状」を言い表しています。

           

          形あるものには全て「心」が在り、それは自然界に於いては「自然の摂理」であり、人間の創造物にあっては「動機、意欲、志、思い入れ、愛情」などといった「心のエネルギー」がそれぞれに相応しい形を形成し、維持する事で、この世のあらゆる「形あるもの」が成り立っていると考えられます。

          例えば人間に於いては「生きる意欲」が自らの肉体(という形)を保ち、そのために必要な生活(という形)を保とうとします。仮にそうした「意欲」が失われてしまったなら、早晩その「形」はこの世から消え失せてしまうに違い有りません。(他力による干渉を除きます。)

          つまり人間に於ける(本来的な意味での)「形」とは「心の具現化」ということになります。

           

          このことを逆に見れば「心の伴わない形は存在しないも同然」ということになります。(しばしば使われる「物事の形骸化」というのも同じ意味で、心の消失と形の消滅の時間差を物語っています。)

          ここで言う「心の消失、心が伴わない」とは、無論「形に対してふさわしくない心の変質、変容」も含まれることになります。何故なら、その時点で既に「心と形の相関関係」が完全に失われており、そのような「紛らわしい不自然なもの」の存在自体が不条理であり、この世に悪影響しか及ぼさないからです。

          しかし、人間界に於いては現実には「本来の存在意義(=心)が消失し形骸化したもの」が多々存在します。それらは「無意味な執着」や「意図的な悪意」によるものがほとんどで、そうしたものによって健全な社会の発展が阻まれているのが残念ながら世の常となっています。(因みに自然界では、(摂理に基づいて)存在意義を失ったものは(新たな存在意義を台頭させるため)逐次淘汰されます。)

           

          こうした観点で今の社会を見る時、改めて「累々と居並ぶ屍」の多さに驚かされます。それらが「横たわる、積み重なる」などの表現ではなく「居並ぶ」となるのには訳が有ります。「居並ぶ屍」とは「生きているつもりの屍たち」という意味であり、そのように理解することで、初めて今の社会の持つ「異常性」「危険性」を実感することが出来、また在るべき方向性を見出すことが出来るようになると思われます。

          巷ではよく「ダメな状態」に対して「死に体、レームダック」という表現を用いますが、これらは「まだ生きている」という意味になります。しかし時には「既に死んでいる(消滅している)」という認識を以って対処しなければ、物事に「見切りが付けられない」場合があるということです。

           

          私に言わせれば、言葉の価値を持たない「安倍政権」などはもはや「死に体」とは呼べないと思えますし、不祥事の続発する一連の企業なども「立て直し」が効く段階とは思えません。横一線の同じニュースしか流せない報道機関の存在意義もとっくに消失しています。このように理念や建前が「有名無実」となって久しいものは、既に「息絶えている」と見做す他なく、もしそれが廃墟化した建物であったなら、土地の有効利用のためにも早期の解体が望ましいのは言うまでも有りません。

           

          今まさに、私たちには「屍を乗り越えて進む気概」が求められています。

          | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 08:30 | comments(0) | - |
          「なりすまし人間」の見分け方
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            先日、悪魔(or悪魔的人間)は「なりすまし」「先回り」がその常套手段である旨お伝えしたが、取り分け人間に於いては(他者に対して)やたらと「道徳」や「規範」「伝統」などの言葉を持ち出し、押し付けがましく強弁を振るう人たちは全く信用ならない。何故ならそれこそが「なりすましの見本」と言えるからだ。

             

            そもそも「道徳」が人の道、即ち「人と人との望ましい関係」を示すものであるとするなら、その核となるものは「和合」に相違ない。であればそうした関係性は例え一方がそれを望んでも成し得るものではなく、まして「強要」や「押し付け」によって叶うべくもない。

             

            そうではなく、「和合」の原点が「信頼」であることを理解するなら、それこそ長い時間を掛けて「相手のために相手を思いやり、誠意を以って相手に尽くす」ことを(最初はそれこそ一方的にでも)行なう事で、相手に対して「和合の意思のあること」を相手に示し、理解してもらう必要があるのではないだろうか。

             

            しかし「なりすまし人間」には(当たり前だが)そういった考え方は微塵もなく、「道徳意識の欠如」を持ちだしては相手を批判、攻撃し、「だからダメなんだ」と言わんばかりに「道徳的な形」を押し付けようとするのであれば、その目的は「相手との和合」であるはずもなく、単に(相手の反抗心を削いで)自らの管理下、支配下に収めようとしているとしか思えない。(実際そうだろうが、実に卑怯で極めて悪魔的だ。)

            つまり、道徳を口にしながら、やっていることは極めて「非道徳的」であるのが「なりすまし人間」の特徴と言える。

             

            「道徳」に限らず、凡そ条文化されたような訓示、訓戒、更には宗教的教義、教典の類はみな、こうした「なりすまし人間」「先回り人間」の格好のツールと成り得る事を、心ある人々は識っていると思う。何故ならそれらの本質は元来「行為、行動によって伝えられるべきもの」であって、それを文字に起こした時点で既に「効率とクォリティ(=信頼性)のトレード」が行われているからだ。

             

            繰り返しになるが、「道徳」を声高に叫ぶ人に限って「道徳的な人」は少ないということ。

            | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 09:19 | comments(0) | - |
            悪魔のデザイン
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              これは所謂「悪魔的にデザインされたもの」の話ではなく、文字通り「悪魔そのもののデザイン」という意味である。そして更に言えば、悪魔という存在の経緯は決して自然発生的ではなく、ましてや偶然の産物などでは有り得ず、(伝承される種々の言い伝えはともかくも)実際はある目的に沿って作られたものと言うことだ。

               

              それは一言で表わすなら「神に対峙し相反する存在」であることは明らかであって、それがデザインの本質でも有り、また目的を示唆するものとも言える。となればそのデザインは極めて簡潔であり、あらゆる面に於いて調度「神の裏返し」「神の真逆」であれば良い訳であって、実際そうなっている。

               

              しかし、ここで大きな疑問が生じると思う。それは「もしそうであれば(神を理解してさえいれば)一目瞭然のはず。だが実際はそうならずして、古今東西(現在に至るまで)人々は悪魔(的なもの)に翻弄され続けているではないか。」といったもので、つまり「悪魔(的なもの)は往々にして判りにくい」という話だ。

              何故そうなってしまうのか?

               

              その答えは簡単至極で、それは「神(というもの)の正しいイメージの持ち合わせがない」のがその理由だ。もっと言えば「誤った(神の)イメージを持っているために(神と悪魔の)区別さえ付かない」ためだ。

              世の中には、それと承知の上で悪魔教に入信し、悪魔と契約を交わす人間たちもいるそうだが、そんな人たちはごく一部であって、殆どの人たちは(それと知らずに)騙される形で悪魔の所業に(いつの間にか)加担させられていたりすることが多い。それもこれも全ては「神を知らない」ことに起因する。そもそも「神を知らない」のだから、「神の反対が悪魔」と言われても正しいイメージを持てるはずもない。

               

              例えば「神は正義の名の下に悪人を成敗するもの」と信じ込んでいる人は、自身もまたそれを願い、そのように振る舞おうとするだろうが、神は「悪人を成敗」などしない、となれば(人間の考える)「成敗」という概念自体がすでに「悪魔的」である可能性が高い、という按配になる。(神の下す「審判」は「成敗」と同義ではない。)

               

              そしてもう一つの重要な事は、「悪魔は神と「表裏」の関係にあるため、神を「熟知」している」ということで、これにより神を「模倣(=なりすまし)」したり、神の計画に「先行(=先回り)」したりすることが容易に行われるというのも頷ける。その結果(人間から見れば)益々「神と悪魔」の判別が難しく感じられるということなのかも知れない。

              例えば「巨大な宗教団体」など、まさに悪魔が好んで「なりすまし」や「先回り」のターゲットとするケースも多々あろうと思われる。

               

              ただし「神と悪魔の判別」はポイントを押さえて置きさえすれば、さほど困難とも思えない。

              ポイントとは「神は人が人の不幸を願うことを認めない」「神は人が人を殺めることを認めない」というようなもので、その理由は「それが神の領域」であるからに他ならない。(それで十分だろう。逆に言えば、それを認めるのが「悪魔」だ。)

               

              | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 11:50 | comments(0) | - |
              「投票行動」の持つ意味
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                今日は久々に「霊的見地」での記事となりますので、抵抗感のある方は閲覧お控えくださって構いません。

                 

                以前より繰り返し申し上げているように、世の中の流れや人の動きはまず「霊界」にて因が発せられ、それが些かのタイムラグの後、結果として世の中に(目に見える形での)「現象」をもたらすという仕組みとなっており、それに対する人間個々の「反応」の様が「霊界」に反映することで、新たな因が形成されることとなっています。

                 

                その意味に於いて今回の「衆院選」は、そこに至るまでの経緯、即ち政治、経済、社会の流れに対する「人々の反応」を象徴するものと言っても過言ではないからです。

                例えば候補者本人が「森友、加計疑惑」に名を連ねている人物であっても、「いや〜、○○先生のおかげでウチは儲けさせてもらってるから」とか、「ウチの地域は親子三代ずっと○○先生んとこで、やって貰ってっから」など、「国会議員の選出」であるにも関わらず、ほとんど「個人や地域の利害損得」でしか反応出来ない人もいたりします。(たぶん「安保法制」「原発行政」はおろか「社会保障問題」さえどうでもいいのでしょう。)

                 

                因みに今回の選挙は(大雑把に言って)「候補者の人間性を問う選挙」の様相を呈しています。これは考えて見れば極めて「当たり前」の話で、人間性の乏しい(利己的な)人間に「良い社会を作る役割」など果たせる訳もないのですから。

                また、人間性が豊かである人々には「発想の共通性」が有るため、その主義主張の違いも「大同小異」の範疇に収まり、結果的に極めて効率的で効果的な国会運営が為されるはずです。

                (この場合の人間性とは「みんなで良くなる」「みんなで良くする」精神の事です。)

                 

                このように今回の選挙で(図らずも)「人間性の有無」で候補者が振り分けられる形となっている事には理由が有ります。それは有権者個々の投票行動によって「有権者自身が(人間性の有無によって)振り分けられる」という局面が必要とされているからです。

                つまり候補者の「当落」があるのはもちろんですが、今回の投票行動如何では、私たち有権者自身の「当落」という事態が生ずるかも知れません。だとすれば、これが「最後のチャンス」ということになります。

                 

                間もなく大規模な「価値の転換」が行われようとしていますが、これはその「布石」かも知れません。

                | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 09:57 | comments(0) | - |
                問題は社会システム云々の話ではない!
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                  例えばここに人間が二人いて、双方共が「良い人」であったとすれば、その二人が力を合わせて生きていく上に於いて、事前に何か「決めごと」を行なう必要があるでしょうか。(そうは思えません。)これは仮にその場に十人いても同じであって、(瞬時に意思の疎通が可能な範囲であれば)そのパーフェクトな善意の集団(=社会)に於いては、何ら決めごとを設けること無く「公平、平等で幸福な社会」が実現出来るに違いありません。

                   

                  その際、仮に「リーダー」を設けたり「役割分担」を行なうことがあったとしても、それはどうしてもそのような「社会システム」が不可欠のものだからではなく、単に「より合理的で効率の良いアイデア」を取り入れるという意味に過ぎないでしょう。言うなれば「システム」などと言うものは(社会にとって)二次的、三次的なものであって、そんなことよりも百倍も重要なのが「みんな良い人」であることは疑う余地もありません。

                   

                  故に本気で「公平、平等で幸福な社会」を目指したいのであれば、いたずらに(政治的、経済的な)主義を並べ立て、社会システムをいじくり回す以前に、「(度重なる思想の紊乱、道義の廃頽の末)失われた人間性の回復」のために全エネルギーを注いだとしても決して間違いではないはずです。

                  何故なら、現状のままでは「如何なる高尚な主義、主張も悪行のためのツールと化している」状況は変わらないからです。

                   

                  例えば現状では「民主主義=多数決の乱用、悪用」と化し、「社会主義、共産主義=権力の独占、横暴」と化し、「国家主義、全体主義=国家の私物化」が行われ、「新自由主義、グローバリズム=弱肉強食による富の収奪」でしかなく、結果は何れも「権力者の優遇、庶民の冷遇」でしかありませんが、もし「社会のみんなが良い人」であったなら、仮に「独裁的なシステム」を用いた政治が行われたとしても、むしろ効率的に「公平、平等で幸福な社会」が実現するであろうことは疑う余地もありません。何故なら「独裁者自体もその取り巻きもみんな良い人」なのですから。

                   

                  「そんなの今更無理だ、不可能だ!」と思う前に、良く考えてみて下さい。今からわずか百年ほど前までは、「金のためなら何でもする」などという人は、日本社会ではごく一部の「はみ出し者」でしかなかったのです。そのような日本古来の「恥の文化」が短期間に急速に失われてしまったとすれば、それは「それを望む何者かによって故意に、そして執拗にマインドコントロールが繰り返し行なわれてきた結果」としか考えられませんし、そもそも人間は(悪に手を染めるよりも)「良い人間」で在り続けることの方が「心地よく感じられる」もので、しかも「好循環」によって楽に生きられるものなのです。(嘘だと思うなら近所の「良い人」に訊いてみて下さい.)

                   

                  何れにせよ、この世界には「社会に良い人が増えると困る(というとんでもない)人たち」が一部いるようですが、だとしても私の知ったことでは有りません。(そういう人たちは、やがて居場所を失うでしょう。)

                   

                  | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 11:44 | comments(0) | - |
                  一寸先は闇!
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                    人として最も恐ろしい事は、「物が正しく見えていない」ことに尽きるだろう。これはもちろん視力云々の話ではなく、その人の置かれた状況や状態に対する理解力、判断力の有無の話だ。そして(詳細は割愛するが)この「物が正しく見えるか否か」の個人差は「人間性の有無」が深く関わってくる。何故なら「人間性の本質は理性」であり、理性が十分に働かない限り「物を正しく見る」こと自体が不可能と言えるからだ。

                    つまり人間性が豊かであってこそ「確かな展望」が望め、人間性の乏しい人々に於いては文字通り「一寸先は闇」と言って良い。(人間性についてはサイト内検索で過去記事を参考にして下さい。)

                     

                    翻って政局の現状に目を向けるなら、(9月26日の記事でも書いた通り)「出方を間違えれば命取り」の状況下に於いて、すでに多くの「誤算」が起きているようだが、それも当然と言えば当然だ。何故なら、その場に参集した人々の多くに於いて(人間性に問題があってか)そもそも当初から「物が正しく見えていない(=物が歪んで見えている)」ためだ。

                    即ち「今まではこれで良かった」「歴史的にこうなっている」「慣例はこうだ」などの言い分の内、人間性と無縁のものは、今後は何の意味も持たなくなるだろう。むしろ「そんな感覚が今まで長年通用してきた事」こそに、驚きを覚えるべきだ。

                     

                    とどのつまり「自滅」とは、人間性の欠如がもたらす「当然の帰結」ということになろう。

                    | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 09:58 | comments(0) | - |
                    政界は社会の縮図である。
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                      どうやら旧来の「人畜無害」的な(建前上の)社会構造、システムがここに来て瓦解、崩壊をきたし、それまでそこに抱合されていた個々の人々が「本音」を剥き出しにし始めた事で、事実上の「人々の二分化」が急速に進行中のようだ。

                      「事実上の」というのは、これまでも内面的な「二分化」は存在したが、それが自他共に認識可能な形として顕在化してきたという事だ。

                       

                      その理由はおそらく「我慢、辛抱たまらなくなったから」或いは「好機到来と見て」という事かも知れないが、何れにしても、それは本当の理由ではなく、「ブレーキを外された」または「箍(たが)を外された」というのが正しい。(しかもそういった自覚が無い故に、制御も出来ない。)しかし「誰に?」

                      もちろん、「そういうことが出来るもの」に決まっている。

                       

                      今、このような事が私たちの人間社会全般で起こっている、ということは、これは「私たち全員が直面している(=突き付けられている)自分自身の問題」ということであって、「誰彼問わず他人事ではない」と知るべきであり、ただ政治の世界では(あたかも舞台劇の如く)それがコンパクトな分り易い形で行われているに過ぎない。

                      故に私たちはこれを契機として、今一度(おそらく最後のチャンスとなろうが)自身の身の振り方を見直し、考え直す必要があろうと思う。

                       

                      ただ(少数ではあるが)こうした懸念に無縁の人々もいることはいる。それは従来より「建前と本音の差異が極めて小さく、人間性、社会性共に豊かな人々」であり、二分化の一方を担う人々のことだ。

                       

                      なお「二分化」自体が「他に方法がない場合の最終手段」であり、本来は「全員が豊かな人間性を有すること」を目標とし、理想とすべきであるのは言うまでもない。だが残念ながら、よろず物事にはタイムリミットがあるのだ。

                      | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 09:03 | comments(0) | - |
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