青少年の何でも書き込み寺 (大人も可)

世の中や生き方についての疑問、質問など、何でも受け付けます。コメント欄(Comments)に書き込んでください。

ただ言いたいこと、書きたいことを書くだけでもOKです。(その場合は「コメント不要」と書き加えてください。)

当然ですが、法に触れるようなことは公表できません。また、他人の実名入りなども同様です。
そのような内容はメールでお願いいたします。(プロフィールにあります。)

なお、本名での書き込みはプライバシー保護のためお勧めしません。(ハンドルネームなどご利用ください。)

※当サイトは基本的にリンクフリーですが、貼り付け先等ご一報頂ければ幸いです。
「小学校設立申請取下げ」で幕引き?
0

    この「森友学園問題」をめぐる週末の一連の動きは、明らかに(政権にとって不都合な)国会での参考人招致を断固阻止し、次いで籠池理事長一人に全責任を押し付けて問題の「幕引き」をしようという「政権側の強い思惑」が働いたものではないかという事は、誰が考えてもそうなるでしょう。しかも籠池理事長の会見の真っ最中に「南スーダンPKO活動からの自衛隊撤退」の速報をぶつけて来るという(印象操作の)念の入れようで、これに「あの3.11からまる6年」のニュースが大々的に被れば、事態は終息するとの読みも有ると思われます。

     

    確かにこのような「裏工作や情報操作」によって政局の流れを変えるという方策は、(洋の東西を問わず)従来から「権力の常套手段」として行われて来た訳ですから、政権側としては「いつも通りの手筈で」という感覚なのかも知れませんが、しかしもしそうであったなら、そもそも「森友学園問題」が起こる事さえなかった筈なのです。(何故ならそこでも十分な「裏工作や情報操作、隠蔽工作」などが従来通り為されていた筈だからです。)にも関わらず起こってしまったということは、「政局を超える次元での大局的変化」が起きていると読み解くべきではないでしょうか。(つまり従来のノウハウが全て通用しないという事です。)

     

    ですから今回の政権側の性急な動きも、結果的には「火に油を注いだ」ことにしかならないと思います。

    | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 09:44 | comments(0) | - |
    遂に「黒船」来航?
    0

      当ブログにて初めて「黒船」について触れたのは2016年の9月27日の記事でした。そしてそれ以来何度かその事に触れましたが、その主旨は「自浄作用を失った日本が変わるには黒船(=外圧)しかなかろう」との見方によるものでした。これは考えてみれば当たり前の事で、本物の黒船が来航した1853年から160年余り、世界は既に一国の好き勝手な振る舞いを(例え内政であっても)容認出来ないほど各国の利害関係が緊密化した状況が出来上がっています。増して内政と外政が表裏一体のものとするなら、(建前はともかくも)そこに様々なアプローチ(=圧力)があると考えるのが自然と思われます。ですから今回の様な日本の「内政」に関わる海外からのアプローチがもしあったとすれば、それは当然目に見えない形であるがゆえに、防ぎようの無い強大な力であるはずです。(以下にそれを覗わせるような「カレイドスコープ」の記事を紹介しておきます。)

      カレイドスコープの記事はこちら→ http://kaleido11.blog.fc2.com/blog-entry-4853.html

       

      ところで私たちにとって、そのような「黒船」の影響を色濃く受けることが是か否かという事が最大の問題とも言えますが、結論的に言えば、それは「受け入れるべきは受け入れ、拒むべきは拒む」ということであって、案件ごとに態度をしっかりと決めて行くのが良いと思います。そしてそのためには私たちの側に「未来に対する明確なヴィジョン」が不可欠だと言うことです。

      例えば「国際的な視野」に立った上に於いて「みんなで良くしよう」「みんなで良くなろう」というヴィジョンを日本が正確に発信出来たとしたら、いったいどこの国がそれに対して「難癖」を付ける事が出来るのでしょうか。

       

      私は(個人的には)現行の日本国憲法には、そのような発信を可能とする十分な潜在力があると思っています。ただ現状の私たちには、それを公然と発信するための「勇気」がまだ十分とは言えないのだとも思っています。

      そう、私たちは「何か」を恐れているのです・・・・・。

      | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 12:26 | comments(0) | - |
      各自が「自分の役割」をしっかりと果たすべし
      0

        本題に入る前に、昨日の「カレイドスコープ」の記事が「森友学園問題」の概要と本質を上手くまとめていると思われるので、以下にリンクを貼って置きます。

        カレイドスコープの記事はこちら→ http://kaleido11.blog.fc2.com/blog-entry-4855.html

         

        さて、タイトルにも示した様に、私たちの社会は「役割分担」で構成されており、各自がそれぞれ請け負っているところの「自分の役割をしっかりと果たす」ことが健全で円滑な社会の前提となっています。ここで重要なのは「しっかりと果たす」という言葉の持つ意味を良く理解する事であって、端(はな)から「いい加減な気持ち」しか持てないというのは論外としても、大半の人間が「しっかり果たしているとは言い難い状況」があると思われます。そして正にその事が現在の社会の「歪みや危機的状況」の原因となっている自覚に乏しいことは非常に問題です。少なくとも過去数十年間にわたってその状況が積み上げられてきた訳ですから、いつかは「歪んだ積み木がバランスの限界に達して崩れ落ちる」のは当然で、それがたまたま今であるというだけの事でしかありません。

         

        例えば森友学園をめぐる一連の動きの中で、いったい誰が(どこが)「役割をしっかりと果たした」と言えるのでしょうか。これまでの経緯の中で関わったと予想される何十という個人、組織、団体の内、どれかひとつでもまともに役割を果たしていれば、おかしな流れは当然そこで引っ掛かる事となり、それ以上先へは進めなかったはずです。これの意味するものは一つしかなく、これまでの関わりの中の「誰も(どこも)役割をしっかりと果たさなかった」ということで、もし違法性(=犯罪)が立証されれば「関わった全員が共犯者」ということになります。それぞれが皆、学識も立場もある人たちですので「知らなかった」では通らないでしょう。

        特に最近の国会答弁や記者会見では、総理大臣、財務大臣を始めとする関係省庁の大臣、局長クラスの人たち、また官房長官や与党幹事長、国対委員長や各議員に至るまで、明らかな詭弁(と子どもでも判るような答弁)に終始しており、「役割を果たす」どころか(参考人招致要請に対する拒否など)「役割の完全放棄」とも受け取られ兼ねない態度を示しています。

         

        この「役割の怠慢、放棄」に関しては、大手マスコミなど各報道機関にも同じ事が言え、民主主義国家に於ける「権力の監視」がその社会的に重要な責務、役割であることを重々承知の上でそれを「故意に怠った」という意味ではもはや「共謀、共犯」のレベルと言って良いでしょう。(一般市民とは異なり)自らにそのための「取材の権利、権限」が与えられていることを思えば、到底許されるものではなく、この際「自分たちも加担して問題が引き起こされた」という重い認識が必要です。(特に圧倒的な取材力を誇るNHK!)

         

        例えば社会というものは、仮にその仕組みが粗雑で簡易的なものであったとしても、その中で「役割」を担う人間が「自分の果たすべき役割」をしっかりと理解していれば、それなりに機能するものです。何故なら「臨機応変」に適切な行動を持てるからです。

        しかし反対に、如何に構造的に完成度の高いシステムであっても、それぞれの役割を担う人々が各々「自己中心的」であったなら、構造的なあらゆる部分が「そのため」に使われることとなり、やがて構造全体が(修復不能な)奇怪な歪みで覆われるのは時間の問題となります。(現にそうなっています。)

         

        そうなれば構造物は(中の人間もろとも)一旦廃棄処分するしかなくなり、必要に応じて新規に組み直すしか有りません。その対象となるのは、まず政治システムであり、官僚システムであり、金融システムであり、他のあらゆる「おいしいシステム」であると思われます。

        何れにしても、これからの社会に於いては「役割をしっかりと果たさない人」は生きられなくなるでしょう。(「反面教師」という役割の募集は既に終了しました。)

        | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 12:34 | comments(0) | - |
        霊界に於ける「白黒」とは
        0

          ※本日の記事は「この世に神が存在する」事を前提に話を進めますので、懐疑的な方にはお勧め出来ないかも知れません。

           

          昨日も記事にした様に、この世に於いて「白黒付ける事」は決して好ましいものではなく、ただ便宜上「関係性のバランスを保つため」の基準や目安が存在するに過ぎませんが、その一方で「霊界」に於いては明確な「白黒」が存在します。それを簡潔に表すなら「神が白」で、それ以外が「黒」となりますが、そう言われても「全知全能である神の意思や思いを具体性を以って実感すること」自体が(多分)困難と思われます。

          もちろん霊界に籍を置く「霊魂」のレベルでは、この事は熟知されていますが、人間としての私たちが「感性」のレベルでその事を実感出来ない限り、思想や行動に反映させる事は出来ません。そのために人間には「人間性」という思想化された体系的な意識があるのです。この「人間性」こそが、私たち人間が「神が白」という霊界の実相を具体性を以って実感するためのツールと考えて良いでしょう。

          何故なら「人間性」とは、人間が(他の動植物などとは異なり)この世で唯一「神が自らの分霊として作り出した存在」を証明するものに他ならないからです。(分霊とは正確には「人の霊魂」を指します。)それはつまり(スケールの違いを除けば)元々は「神の心」と「人の心」が「相似形」である事を意味しています。

           

          そこでこの「人間性」について少し考えて見ると、その実体が「みんなが良い」「みんなに良い」という思いに集約される事が解ると思います。その「みんな」とは(もちろんそこには自分自身も含まれますが)、決して家族や一族だけのことではなく、国家や民族だけに留まるものでもなく、更には他の動植物や自然環境全体にまで拡がるおおらかな思いであることが判ります。

          つまりそれは「垣根のない、別け隔てのない心」ですが、ただそれだけではなく、同時に「縦横の構造的理解を伴う責任の心」でもあることが判ると思います。それらは全体として「みんなに良い世界(社会)を実現するための意識と力」を形成するものと言って良いでしょう。であるとすればそこには当然ながら「白とか黒とかといった偏狭な思い」が介在する余地すらも無いことになります。

           

          つまり「白黒」とは元々、自分自身の内部の「人間性」が、自分自身を精査、調整するための判断基準であったということです。(それを他人に向けるからおかしい事になるのです。)

          | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 11:43 | comments(0) | - |
          物事に「白黒付ける」のは誤りだ。
          0

            そうは言ってもパトカーは「白黒」に塗り分けられ、裁判では「有罪、無罪(=白黒)」の判断が下される。それを思うと、社会に於いて物事に「白黒付ける」のは当たり前ではないかと考える事も出来る。

             

            例えば「我田引水」という言葉があるが、自分の田んぼに川から水を引きたいと思う事は当たり前で、それ自体は何ら悪い事ではない。(むしろ正しい考え方と言えるだろう。)ただ(自分だけではなく)他人も田んぼを持っている場合に限り、そちらの水が足りなくなるという危惧が生じることとなり、そこで初めて「我田引水」という行為が問題視される。しかし、その段階でも別の田んぼの人からの訴えがなかったり、その人が自発的に米作りから撤退してしまったとすれば、(結果的に)この「我田引水」は問題化されない事になる。

            つまり「我田引水」という言葉のイメージとは裏腹に、この行為は白でも黒でもないという事だ。

             

            このように物事に於ける「白黒」とは、あくまでも相手方との間の利害得失に基づく(訴えや非難などの)相手方の具体的な反応、或いは予測される反応によって判断される性格のもので、何れも行為そのものに付帯する価値判断とは言えない。

            それは「法的な規定、基準」に於いても同様で、単に一般的、或いは平均的な「相手方の反応(=困窮、混迷、怒り、悲しみなどのダメージ)」に基づいたものと考えられ、そのうち大多数の同意が得られる様な性格のものが「反社会的行為」として定着するのだと思われる。

            しかしこの「大多数の同意」というものは、文化や生活様式、教育は元より、国家的な「マインドコントロール」によっても変化するものでもあるので、安易に物事に白黒付けようとの動きには、自他共に一層の注意が必要だろう。

             

            故に「裁判」に於いてもそこで「白黒付ける」という考え方で良いはずはなく、あくまでも個々のケースに於ける「(基本的人権に基づく平等公平である)両者の相対的関係」を十分吟味した上での「加算減算方式」の結果で判断されるべきものだと思う。何故なら主体は(行為ではなく)関係性の問題だからだ。

             

            繰り返すが「白黒付けたがる心」こそが「黒」という皮肉な結果もあるのだ。

            | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 11:17 | comments(0) | - |
            「極論は誤り」という当たり前の話
            0

              何故人間は「極論」に走りたがるのだろう?その答えは簡単至極で、「中庸」に向けた心の努力を怠るからだ。もっと簡単に言えば「バランスを取ることをめんどくさがる」からだ。つまりそうした「心の怠慢」の結果が「極論」と言うことになる。

               

              例えば「社長一人と社員5人」の職場にケーキや羊羹や細々としたお菓子の差し入れがあったとする。本来であれば、これらのものを6人で均等に分ければ良いだけのことだが、「分けにくい(=めんどくさい)」などの理由で、全員参加のジャンケンで勝った者から好きなものを選んで行くというのは、世間で有りがちな話だと思う。これは言ってみれば「自由競争を前提とした自由主義」ということになり、最初のジャンケンが「全員参加」であることを以って「平等、公平」な方法とされる。

              しかしそもそも人によって「ジャンケンに対する好き嫌い」があることは無視されている。また強気の人間の「俺に勝ったら承知せんぞ」というあからさまなオーラも無視されている。もっと言えば「ジャンケンの強い弱い」も無視されている、というように、建前はどうあれ厳密な意味での「平等、公平」とは言えない。

               

              もうひとつの方法は「社長の一存で分ける、また分けない」という「社員個々の意思に依らない(全体主義的な)」ものだ。これは職場の管理者である社長の裁量に一任する方法で、誰も文句の付けようもない代わりに、見た目の「平等、公平」が担保される保障もなく、単に社長の「価値観」がそれとなく示される結果となろう。であるなら、それは日頃から「社長の覚えめでたくしておく」という動きにつながっていくかも知れない。

               

              このように「自由主義(=競争)」も「全体主義(=独裁)」も、迅速な手段、方法とは言え、「平等、公平」というバランスを目指す上では「論理的に不適当な極論」であり、どちらが良いかと問われるならば「どちらも悪い」と答えざるを得ない程度の違いでしかない。にも関わらず人間はまるで「中庸」という選択肢が最初から無いものであるかの如く、常に「自由か独裁か」のように両極端にしか関心を示そうとしない。

              何故なら「極端な発想」に於いてはエゴの介在する余地があるが、「中庸」にあっては「エゴの介在する余地が無くなる」からに他ならない。

               

              人間とはこのように「どこまでも狡くさもしい存在」である。(少なくとも今までは。)

              | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 10:19 | comments(0) | - |
              再度「内部崩壊」について
              0

                当ブログに於いて「内部崩壊」について明確な形で触れたのは2015年8月15日の記事が最初と思われます。(約1年半前)そしてそれ以来、事有る毎に2016年に於ける社会の「変動、変化」と「内部崩壊」の関連について記事にして来ました。

                記事一覧はこちら→ http://blg-hal-kursk.jugem.jp/?search=%C6%E2%C9%F4%CA%F8%B2%F5

                ところで今年2017年は「内部崩壊」ではなく、その段階を通り越していよいよ見た目にも明らかとなる「瓦解、崩壊」のオンパレードとなるだろうと言うことなので、それと「内部崩壊」との関連性を改めて確認しておきたいと思います。

                 

                今年になっても相変わらず「内部崩壊」の現象は至るところで継続され進行していますが、先に始まった「内部崩壊」の内、組織の破壊が内から外へと拡がりを見せ、腐った果実の様に異臭を放ち始め、もはや外観の体裁すら保てなくなった時点でいよいよ「瓦解、崩壊」するというものですから、2017年現在もその過程に於ける様々な段階の組織、構造物が存在しているということです。

                ただその中で今年中にリミットに達するものが数多く有り、中には社会的基盤に属するものも多く含まれるため、そうしたものの「瓦解、崩壊」が当然ながら2017年の「特徴的、象徴的な現象」ということになる訳です。

                また、巨大構造物の崩壊は、周辺の他の多くのものを同時に巻き込む事ともなり、その意味ではそういった現象は一層顕著なものとなるはずです。

                 

                皆さんご承知の様に、それは既に始まっています。その際(今更ながら)生き延びるために多くの人々が「海に飛び込む決断」を迫られている事と思われます。(すでに飛び込んだ人もいる様子です。)

                その手段として「リーク、告発、寝返り、裏切り」などが横行するようなら、これらの「瓦解、崩壊」の流れは更に加速する事になるでしょうが、そうならそうでそれも致し方有りません。

                 

                何れにしても大切な事は、意味の有る反省と共に、この先しっかりとした「展望」を持つことです。

                | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 10:48 | comments(0) | - |
                神は決してお人好しではない
                0

                  昨今、海外に於いては「アメリカのトランプ大統領の動向」、国内に於いては「森友学園の国有地買収問題」などの話題が世間を賑わしている様ですが、当ブログに於いてはその目的上、それら個別の案件について記事を書くことは差し控えたいと思いますが、唯一(非常に重要であるにも関わらず中々話題に上がりにくい)「公共放送であるNHKの目に余る偏向報道」だけは指摘しておきたいと思います。(それはもはやNHKという巨大構造物の瓦解、崩壊をも予見させ得るレベルだということです。)

                   

                  ところで「神は決してお人好しではない」とは、裏を返せば「神は厳しい」という事になりますが、何故わざわざそんなことを言わなければならない必要が有るのでしょうか。それは日本の概して温暖な気候や豊かな自然環境といった「恵まれた風土」に有って、そうした土地柄にあっては「神」に対するイメージは一般に「温厚で優しい存在」となりやすく、一方で「厳しい自然環境」の下での「神」のイメージは当然「厳しいもの」となるはずだからです。

                  ですから日本の場合、「神様」は総じて「親(ちか)しい存在」「親しみやすい存在」として受け止められているとも言え、それはそれで(文化として)良い点でもあるのかも知れませんが、その「距離感の近さ」が転じて「願えば(優しいから)何でも聞いてくれる(だろう)」という「ご利益信仰」に移行する可能性は否めません。

                  しかしそれでは100%人間側の「勘違い」と言わざるを得ません。

                   

                  まず、「神様が非常に親(ちか)しい存在」である事は間違い有りませんが、それは私たちの日々の言動はおろか、形にならない想念までが100%霊界にフィードバックされている事実によって裏付けられています。しかし「日本が豊かな自然に恵まれている」ということは、何も「神様が優しいから」という理由で、他の厳しい地域との差別化が為されている訳では有りません。敢えて詳細は省きますが、それは「論理的」に定義付けられたもので、肝心な事はそれを前提として「その上で何を思い、何を考えるか」という謂わば問いかけに対して「何と答えるか、また答えられるか」なのです。そして私たちが出した答えに対する「神様の採点」は、普通に「厳しいもの」だと言っておきます。(少なくとも甘々の採点では有りません。)但し、私たちが「人間性」を以って日々生きることに懸命してさえいれば、簡単にクリア出来るレベルであることも加えておきます。

                   

                  これらの事は「人間の霊魂の起源が元々神の分霊である」ことを踏まえれば、容易に理解出来ると思います。

                  | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 12:25 | comments(0) | - |
                  神も仏も無いもんだ!
                  0

                    そうでしょうか?神も仏も在るからこそ、邪(よこしま)な計画が最悪のタイミングで露呈され、実行不能に陥るハメに会うのではないでしょうか。取り分け何らかの宗教に依存し「現世利益」を望む場合は、ことさら注意が必要です。何故なら当人には「(信仰心ではなく)宗教心によって神仏のお墨付き(=承認)」が得られたとの意識が働くため、不本意な結果に対する衝撃は、より大きく、条件反射的な「裏切られた」という思いが避けられないと思われるからです。それが即ち「神も仏も無い!」というやり場のない憤りです。

                     

                    しかし論理的に見て「(純粋に私的で個人的な願いに属する)現世利益」を願い出れば神仏が叶えてくれると考えること自体が、実はおかしいのです。何故なら人間がこの世に生を受けて送り出される時、既に「霊界」ではそれに伴う「その人間の有する霊的及び物質的権利」をセットで詳細に設定しています。それは平たく言えば「運命上必要な援助物資は(先付けとして)既に与えられている」ということになります。そうでなければ人間は皆、生まれてすぐに「路頭に迷う」事にしかなりませんが、一部(運命上の例外)を除けば、そんなことは滅多に有りません。(但しそれらの物資は指定された霊層段階による発動分も含みます。)

                     

                    つまり物は必要分が始めから(権利として)与えられているのですから、改めてこちらから願い出る必要など本来は無いはずです。それよりもむしろ、せっかく与えられている権利を浪費によって使い果たしたり、不徳によって没収されたりといった「必要分を失うこと」に対する心配をすべきではないかと思います。

                     

                    具体的には、もし現在に「貧しさ」を感じるとすれば、まず行なう事は「やりくり」を覚えることです。それをせずに単に「働き過ぎる」ことでは、事態を改善する事は困難です。何故ならその時点での(人生の)カリキュラムとしては、あくまでも「やりくり」であって「働き過ぎる」ではないからです。

                    それを地道に忠実に行ってゆくことで、人間は「次の段階」に進める様になっています。つまり「学んで習得した分だけ段階が進む」仕組みとなっていて、その段階ごとに必要な(霊的、物的)因縁が適宜発動するということは言うまでも有りません。

                     

                    このように「霊界」には「望めば望むだけ物が手に入る仕組み」は有りません。それはその人が宗教に依存していようがいまいが同じです。ただ「見た目」ではそのように見える場合が有るのも事実です。(それ故、欲得に心を奪われて誤った現世利益を求める人々が古今東西跡を絶たないとも言えます。)しかし、その疑問を解決するのは実は簡単です。

                     

                    即ち、その答えは「神は決してお人好しではない」ということです。

                    | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 11:34 | comments(0) | - |
                    2年続きの「1月1日の記事」について
                    0

                      当ブログはご承知の如く、アクセス数を増やす事や皆さんの同意同調を得ようとする意図を以って発信されている訳では有りません。ただ霊界をも含む広義の意味に於ける私たちの世界は100%完全な「論理的構造物」であって、その性質上「非論理的な物事」が通用しない仕組みになっているという「最も基本的な理解」から多くの人々が余りにもかけ離れてしまった現状を鑑み、論理に基づいた大きな流れの中で、今自分がどこにいて、どちら(の方向)を目指すべきかといった「自発的イメージ」を構築する際の一助となればとは思っています。無論、それは霊界の本意でも有ります。

                       

                      ところで2016年の1月1日には「今年は変動、変化の年」と書きました。そしてその理由として「2015年にその種が蒔かれたから」としました。これは更に正確に言えば「霊界に変動、変化をもたらす因が生じているから」となりますが、そう書いたところで本意が伝わりにくいと思われたため、別の表現が用いられたに過ぎません。

                      このように、霊界では必ず現界(この世)に先行して「因が生起」しているものなのです。(それは人の死も同じですが、他人のそれを明かす事はこの世のタブーです。)

                      そして2015年中に霊界で生起した因に基づく形で(現界に)結果現象を見た2016年中の「変動、変化」は、同時に霊界にフィードバックされ、それを元に今度は2017年に向けられた因が生成されることになります。それが2017年1月1日の記事の「瓦解、崩壊の年」ということです。

                       

                      これはもちろん2017年の特徴的な部分を言い表したもので、「建設的な要素」が全く無いという意味では有りません。しかし私たち人間にとって最も重要なことは、身に起きた事柄によって「論理的な理解」にいち早く到達する事に違い有りません。何故ならそれによって「次にどうすれば良いか」が正確に判るからです。

                      そのためには(不謹慎な言い方かも知れませんが)幾つかの要素が集中的に示される方が、より迅速な理解に通じやすいということがあるかも知れませんが、何れにしてもそのタイミングについては、到底私たちの計り知れるものではないでしょう。また「人の死」の場合と同じ様に「いつなんどきどこで何が」という様な話がタブーであることは当然です。

                       

                      何より私たちは今般の「瓦解、崩壊」と言えども、その先のより良い社会の「建設」に向けた過程であることを確信する必要が有ります。何故なら、正しい理解に裏付けられた「展望」こそが、私たちの支えであり、力となるからです。

                      | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 11:00 | comments(0) | - |
                          123
                      45678910
                      11121314151617
                      18192021222324
                      25262728   
                      << February 2018 >>