青少年の何でも書き込み寺 (大人も可)

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人間の体内に仕込まれた「時限爆弾」
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    誰が仕込んだのか・・・自分自身です。(未解決の自分の過去の過ちはすべて霊細胞として蓄積されます。)

     

    それは何のためか・・・それは本来、人間に未解決の過去の過ちを都合よく忘却させないための仕組みです。

     

    それがあるとどうなるのか・・・折りに触れて不快な過去の記憶を蘇らせ、本人を不快にさせます。

     

    どうすれば完治するのか・・・過去の過ちを認め、悔い改めるべく「贖(あがな)いに勤しむ」事で解決します。

     

    「贖いに勤しむ」とは?・・・既に手の届かない過去であれば、現在の類似の案件によって過去の過ちを精算出来ます。

     

    「贖わない」とどうなるのか・・・類似の案件が生じる度に同じ過ちが繰り返され、単純に「過ちが加算」されて行きます。

     

    「過ちが溜まる」とどうなるのか・・・想念の悪化が進み、不快の念が常態化することで、徐々に「贖い」が困難となって行きます。

    ※日本人の成人の85%はこの状態と考えられます。(つまり自分で自分の統制が上手く取れない人たちです。)

     

    「過ちが更に溜まる」と?・・・膨大な未解決の過ちが行く手を阻んで物事が進まなくなり、その原因を他人のせいにします。

    ※他人のせいだと思っている内の99%は自分の(未解決の過去の)せいです。

     

    「最後」にはどうなるのか?・・・自らストレスにより心身を疲弊させ、思想の劣化により自己の運命を破壊、つまり「自滅」します。

    ※但しそれが即「肉体の死」を意味するかどうかは(霊的意向もあり)別問題ですが、何れにせよ「自らの手で自分の未来を閉ざす」ことになります。

     

    「過ち」を持たないためには・・・今々に「人間らしい心」を持って誠実な気持ちで「ベストを尽くす」だけの事です。

    ※過去を精算しなければ現在を現在として生きられず、現在を現在として生きない限り未来は有りません。それが霊的常識です。

    | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 11:26 | comments(0) | - |
    安倍政権のハチャメチャ振りが「正論」の起爆剤に?
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      ※当ブログに於ける「正論」とは、経験則や感情論ではなく「物の道理」に照らして物事を理解する在り方を指します。

       

      私たちは戦後一貫して、その時々の政権によってミスリードされ続けてきたと言っても過言ではなく、現在の日本の状況がそうした結果の表れであることは間違い有りません。ただ「安倍政権」以前のどの政権も、それなりに国民の顔色を窺いながら適当に機嫌を取りつつ、騙し騙しそれなり上手くやってきたという面は否定出来ません。(だから「何だかんだと言われつつも自民党」という評価に結び付いていた訳です。)

       

      ところがここに来て、そうした謂わば伝統的なスタンスが「安倍政権」によって一気に覆されてしまったということです。それは「現実に即した政治」とはとても言い難い、ほとんど個人的とも言える「自らの夢想や願望を無理矢理実現させよう」といったやり方(=独裁)に極めて近いものであったようです。

      当然ですがこれでは「その時の安倍晋三の眼中に無い人々」にとってはタマッたものでは有りません。「安倍政権による政治」はこのように、既に多くの(眼中に無い)国民に大きな犠牲とリスクをもたらして来ました。これは極論を言えば、これまで「国民不在の政治」を堂々と行なってきた結果であって、そのためには(場合によっては)天皇でさえも蔑(ないがし)ろにするものでした。

       

      その中身たるや、別に日本が現時点でことさら弱い訳でもないのにやたらと「強い日本」にこだわり、果たしてアメリカに追従したいのか、アメリカと肩を並べたいのか、はたまたアメリカを越えたいのか、(そんな真意はどうでも良いのですが)傍目(はため)には「ナメられてたまるか!」のような子どもじみた話にしか見えません。しかしそんなコトにうつつを抜かしているために経済、外交、福祉、教育など、あらゆる政策に齟齬が生じ、国民生活が逼迫(ひっぱく)させられていることは事実です。こうなると本当に「頼むから勘弁してくれ」という感じです。

       

      さすがに政治がここまでヒドくなると、世の中には「正論」の風が吹き始めます。それはちょうど「現政権」との対立軸としての位置関係となりますが、裏を返せばそれは「安倍政権はそこまで(=正論を持ち出さなければならないほど)悪いのか」という話になりますが、実際「そこまで」悪いのです。ただマスコミが恫喝(と懐柔)をされてそう言えないだけです。

       

      皮肉にもこうした「正論」が息を吹き返し、市民権を得るまでにその声が高まってきたのは「安倍政権」の唯一のお手柄かも知れません。改めて考えるまでもなく、政治家に一定の「人格や品格」が必要となる事など当たり前の話では有りませんか。何せ国民が命と生活を預けることになる訳ですから。

      従って私たちはこの先「正論」に照らして社会の様々な歪みを修正、修復或いは再構築して行く必要が有ります。(それを今すぐ、今日から始めるべきです。)

      | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 14:06 | comments(0) | - |
      社会の趨勢は既に決まっています。
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        それは国際社会も日本社会もそうだと言う事であって、この「霊的が深く関与する流れ」を変えることは誰にも出来ないでしょう。(それは決して悪い意味では有りません。)ただ(幸か不幸か)こと私たち自身の趨勢に至っては未だ「私たち自身の手中」に有ります。ですから今最も重要な事は、必然的に「私たち自身が(既に決まっている)社会の趨勢とどのように関わって行くか」ということになります。

         

        私個人としては「漫然と受け身で過ごす」というのは得策でなく、出来うる限り積極性を持って流れに賛同し、そして「関わりの中でベストを尽くすべき」だと思います。但しそれは「全ての人々に共通する心の在り方」を示したものであって、具体的なアプローチの形態は人それぞれ千差万別であるのは(その人の現在位置や諸条件を鑑みれば)むしろ当然の事と言えます。

         

        つまり私たちに残された課題は「今後どういう心で生きて行くか」ということに集約されているように思います。何故なら、あらゆる社会的問題の原因は「人間性の喪失に基づく人格の崩壊」であって、それは別の表現をするなら「ズルさの横行」に他ならないからです。

        これらは「社会の構造論理」から見れば、極めて反社会的な思想及び発想と言えます。つまりこれまで(長きにわたり)私たちの社会は(信じ難いことに)「反社会的思想に席巻されていた」ことになり、悲しいことに私たちの多くは(歴史的に)「それが社会(世の中)というものだ」と思わされてきたということです。

         

        しかしここに来て「霊界がようやく重い腰を上げた」と(表面的には)見て取れる動きと流れが生じており、それに伴う「価値観の逆転現象」が始まっています。ところがそれも良く考えて見ると、そもそも「反社会的思想に基づいた社会」自体が「逆転現象」であった訳ですから、単にそれを元通りに戻すという意味であることが解ります。

         

        それについては「何故今まで反社会的思想が(霊的に)容認?されてきたのか」また「何故このタイミングで(霊的主導で)価値観を逆転させる必要があるのか」など、それぞれに「論理的な説明」も可能と思われますが、更に長くなるのでそれはまたの機会に譲りたいと思います。

        何れにせよ、人間性が最も重要視される社会が「私たちの望む社会」だということです。

        | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 13:28 | comments(0) | - |
        当ブログの更新は間もなく終了します。
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          4月も今日で最後となり、明日からいよいよ5月です。というのも、当ブログはこの5月半ばまでを更新のリミットとしているからです。それは、当ブログの体裁と記事自体はその後も「必要な日数」は残して置きますが、新規の記事のアップは行われないだろう、という意味になります。などといきなり言われても、皆さんには何のことだかさっぱり分からないと思いますが。

           

          今までも折りに触れて書いてきましたが、当ブログの主旨は「霊界の意に沿う」ことです。それは「霊界と現界からなる構造的理解」並びに「原因結果の法則に照らした個々の事象の認識」に基づく限り、それが私たち人間を幸福へと向かわせる方向性の唯一無二の選択肢であることは明らかであるからです。(興味のある方は適当なキーワードで「ブログ内検索」をご利用ください。)

           

          私個人として思うことは、これは「霊界」を信じる人にも信じない人にも言える事として、どうにも気になるのはその「バランスの悪さ」です。これは別の言い方をするなら「この世の事にのめり込む」または「あの世の事にのめり込む」という生き方に違和感を感じない人が余りにも多いということです。

          結論から言うと、これはどちらも正しく有りません。(と言っても「のめり込んでいる」自覚すら無いでしょうが。)実際には双方が互いにフィードバックを重ねながら物事が進んで行く訳ですから、肝心な事は「どちらも大切にしながら均衡を保つ」ことであって、そのためには常に「沈着冷静に事態を把握する」心の構えが不可欠になります。(それは感受性を正しく働かせるためです。)

           

          今まで何度か書いてきたように、すでに「霊界のプログラム」は発動し、作動しています。そしてそれはこれまでに無く大規模な修正や調整を目的としたものと認識しています。

          その中で私たちが考えるべきことは、まさに「自分がそうした(時代の)流れや動きとどう関わるか」という一点に尽きます。そしてその結果次第では(世の中ではなく)私たち自身の人生が場合によっては180度変わってくるということなのです。言い換えれば(全ての人にとって)「今が正念場」ということです。

          | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 10:33 | comments(0) | - |
          自民党の面々は「自滅パターン」の見本市か
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            案の定、発狂?した自民党二階幹事長の常軌を逸した発言に対して党の内外から批判殺到だ。今村前復興相の場合もそうだが、このように誰が見ても「それはおかしいだろ?マズいだろ?ダメだろ?」というような言動を、本人だけがまったく無自覚に堂々としでかしてしまうのが「自滅パターン」の典型的な特徴だ。

            何故そんなことになってしまうのかと不思議に思われる向きもあるかと思うが、これは「霊的」に理解すればたいへん解りやすいが詳細はここでは割愛する。(興味のある方は過去記事を参照のこと。)

            因みに「自滅パターン」とは、本来であれば自己の問題点に対して内部的に理解と改善を促す(建設的)仕組みが、本人の度重なる無自覚、無理解からなる「問題放置」によって、逆の「破壊的作用」を及ぼすこと。

             

            こういった「自滅パターン」は自民党総裁である安倍総理からしてそうであり、つい数日前まで国民に対してあれだけ「切迫した北朝鮮の脅威=朝鮮半島有事」を煽っておいて、もしそれが本当であったなら到底「外遊」どころではないはずだ。(現在外遊中・・・。)それこそ今頃、官邸地下の緊急対策室でヘルメット被って指揮を取っていなければおかしいのではないか?

            この調子でやること為すことのすべてが、もはや誰の目にもインチキ臭くしか映らないことをお構いなしにやってのける感覚は、既に重度の「自滅パターン」としか言い様がない。だから「すべては森友隠し、加計隠し」という腹の底が丸見え状態にも関わらず、本人の中では「上手くいってる」という感覚しか持ち合わせがないのだ。

            このように「まったく自分を守れていない」のだからこの人も「終わる」しかないだろう。

             

            余談になるが、森友問題は現在進行中で次々に新たな証拠が提示されており、事実上「総理夫妻」は絶体絶命の危機的状況にあると言って良い。

            | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 09:33 | comments(0) | - |
            苦手意識の克服とは
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              人間には元々個人的傾向として「好きなものと嫌いなもの」或いは「得意なことと苦手なこと」が有り、それぞれの傾向に対して自分自身がどう向き合うかが非常に重要となりますが、それは目的や目標の持ち方によって異なると言えるでしょう。

              特に目的が「人格の形成」であった場合、「好きなものと得意なこと」は放っておいて良いでしょう。そして貴重な時間を費やすなら「嫌いなものや苦手なこと」により注目する必要が有ると思います。

               

              ここで一つの反論があります。それはおそらく「好きなものや得意なこと」こそ伸びしろが期待できるから、そこに打ち込むべき」というものだと思います。もちろんそこにもそれなりの道理は有りますが、その考え方は基本的に信頼出来る「分業システム」の存在と稼働を前提としたものです。つまり「誰かの能力の偏りを別の誰かが補う関係性」を想定しなければ成り立ちません。

               

              そもそも「人格」というものは「偏りを容認出来ない性質」のもので、しかも他人を当てにせず「自己完結を目指す性質」のものですから、必然的に「バランスと安定」をイメージしながら努力することになります。そうなるとどうしても精神的、実務的な双方の面で「アンバランス」の原因となる「苦手意識の克服」に力が注がれることとなり、それによってバランスの良い安定感のある人格、即ち「人格の向上」が実現可能となります。

               

              但し荒業としては確かに「自分の短所を一切気に止めず長所だけをひたすら伸ばす」という方法も存在するのは事実です。しかしその場合も「一定の境地」に達した後は、やはり「短所(=苦手意識)」に戻って克服に着手することになります。

               

              しかし今の時代、このような「人格の向上」を目的としたノウハウの話をいったいどれだけの人たちが必要としているのか、甚だ疑問と言わざるを得ません。

              「人格の向上」は霊的に見れば「霊層の向上」ひいては「運命の向上」を意味し、人生に於いてこれほど重要な目的は無いのですが、それを抜きにしてどのように「無難息災」を望めば良いのか、私にはよく解りません。

               

              | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 10:57 | comments(0) | - |
              人間を頂点とするイメージの限界
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                よく「宗教と科学」などとして、両者を対比させたりしますが、おそらく大半の科学者は「神」を信じています。何故ならこの世のあらゆる物事を(真面目に)探究していくと、すぐに「或る壁」にぶち当たり、同時に「或る思い」が心をよぎるからです。そしてそれがこの世の偽らざる実相であり、この世の真実だということです。(逆に人間が時間を弄して頭でこねくり回す理屈に真実は有りません。)

                 

                (科学者を含む)真面目で有能な探究者たちは率直に思います。それは「物事が自然の成り行きだけでこんなに上手く構成され、形作られるハズがない」というものです。取り分け過去に比べれば探究能力が飛躍的に向上した現代では、多くの人たちが正に「科学と神秘の境界線」が崩れ去る感覚を体験することとなるハズです。

                これは物理学や自然科学に留まらず、(始めから人為的なものを除く)あらゆる分野の探究に共通することと言えます。(例えば、音の性質に由来する音楽や、色や形状を扱うデザインなど。)

                 

                このように人間が直感に従おうとすれば、それは「神」を認める方向性となるに違い有りません。そして元来、人間には「それを拒む理由が無い」というのが正しい理解だと思います。では果たして人間の中で(直感に反し)「神を認めたくない」方向性をもたらす要因があるとすれば、それはいったい何なのでしょうか。

                 

                それは一重に「宗教」と呼ばれる組織的社会運動の功罪に他なりません。以前にも記事にしましたが、宗教の意図するところは「社会的影響力を手中に収めるためのマンパワーの結集」にあり、その意味では他の社会的、反社会的なあらゆる「団体、結社」の概念と変わるものではないということです。そうなると当然「認める、認めない」という選択の対象となることも頷けます。

                 

                ここで改めて言っておきますが、人間が心の中に「神を認めイメージする」事と「宗教を受け入れる」事とは何の関係も有りません。

                神を信じるとは「信仰心」の事であって「謙虚で素直な生き方の裏付けとなる心」の事であり、世に言う「宗教」とは本来、異質で無縁のものです。

                | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 09:39 | comments(0) | - |
                私たちは当たり前の世界に戻ります。
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                  「物」というものは、それが仮に生活する上での必需品であっても、そのもの自体が「無尽蔵」であることが分かっているなら、ただ同然の値段で得ることが出来たとしても何の不思議も有りません。

                   

                  しかし例えば「金(ゴールド)」のように元々産出量が少なく、供給量が頭打ちと考えられるものでは、その需要に応じた価格設定が為される事は、これまた何の不思議も有りません。また、このように需要と供給の関係に一定の「不変性」があるものでは、価格自体もある程度「固定的」であって然るべきでしょう。

                   

                  一方で、諸条件により「生産量や産出量(=供給量)」に変動が見込まれるものに於いては、結果的に時々の「需要と供給のバランス」が変化するため、調整の追いつかない部分に於いて「価格変動」が生ずるのも、また自然なことと思われます。

                   

                  と、ここまで「当たり前の感覚」を以って「当たり前のこと」を書いたつもりです。そして、これにもうひとつの「当たり前」を付け加えるなら、「物の売り買いとは元々等価交換の認識のもとでの物々交換の代用として、価値の固定化された通貨を利用することを前提としている」ということだと思います。

                   

                  そう考えると、私たちの中では「(相対的に)お金の価値が短期間で上がったり下がったり」すること自体が、非常に違和感を覚えずにはいられません。何故ならそれは「需要と供給」に関係の無いところで「物の値段が上がったり下がったり」する事と等しいからです。しかもそれらは私たちと関わりの無いところで勝手に行われているのですから、私たちはある意味「それに振り回される」しか有りません。

                   

                  例えば村落の中で行われる物の売り買いの形態や概念が、国や諸外国という規模では通用しないとでも言うのでしょうか。そんなことは有りません。売り買いは売り買い、取り引きは取り引き、同じ人間同士の営みに違い有りません。ただ、お互い顔の見える村落の中では悪い考えを持つ人が少なく、広域になるほど、その比率が上がっているだけの事ではないでしょうか。

                   

                  ただ今になって一つ思うことが有ります。それは私たち人間が「何が当たり前なのか」を、心底骨の髄まで染み込ませるためには、それこそ(歴史的に)何千年も掛けて「異常極まりない世界」を、これでもかと言う程に体験する必要があったのかと言われれば、確かにそうなのかも知れません。

                  しかし幾ら何でも「もういい」でしょう。今や(一部の完全にイカれた人々を除けば)多くの人々が「当たり前の世界」を切望しています。

                   

                  その世界では「子どもでも分かる」簡単な仕組みで、物が売り買いされることでしょう。

                  | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 12:16 | comments(0) | - |
                  冷静でいられる時間は1日3%だけ?
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                    ※本日の記事は極めて霊的性格の強い内容に付き、霊的に疑念をお持ちの方、影響を受けたくない方々にはお薦め出来ません。その旨あらかじめお断り申し上げます。

                     

                     

                    この数字は平均的な人間のそれを示したものではなく、霊界の見立てに拠れば、人間が1日の内で冷静(=理性が先行、主導する在り方)と言える時間が3%も有れば「上出来の部類に入る」と言っているのです。つまり大方の人間は1日の内、冷静さが保たれている時間など「無きに等しい」という意味になります。

                     

                    私は今を遡ること40年前にこの話を聞いた、というか知った時、愕然としショックを受けたのを覚えています。1日24時間の3%と言えばたかだか43分12秒、並の人間にとって「人間らしい振る舞い」をすることは、その僅かな時間さえも難しいということですから当然です。

                    私はこの話を瞬時に「真実」と認識し、そこから私の(自分自身に対する)挑戦が始まりました。

                     

                    この衝撃的な話には、更に衝撃的な続きが有ります。それは「人間はある程度の霊層に到達しなければ、自分の言葉(=自力)で話せない」というものです。これはどういうことかと言うと、世の中のいわゆる平均的な人間が日常的に話している言葉のほとんど全ては「自力で発している言葉ではない」という意味です。果たしてどれだけの人がそれを「事実」と受け止める事が出来るでしょうか。また、自分の言葉を自分が発していないとすると、いったい誰が発しているのでしょうか。

                     

                    それらは人間自身がこれまで自我(=自己中心)思想を発動させるたび、無意識無感覚のまま内部に作り続けてきた無数の「自我霊、想像霊と呼ばれる潜在自縛霊」によるものとされています。その特徴は一つひとつの思想、一件ごとの状況に対してそれぞれ「一体の霊」が作られ、以後同様の状況が訪れるたびに「人間に代わって言葉や行動を制御する」というもので、普段は腹部付近に位置し、要請が有ると延髄付近まで上昇して言語中枢を操ります。

                     

                    つまり、その状況を客観的に見れば、人間が「過去の自分に操られている」という意味を持つことになり、ただ過去と同じことを繰り返すばかりで、少なくとも目の前の現状には何ら対応出来ていない事になります。即ちそれが内部霊による「霊憑(がか)り」の特徴ということです。

                     

                    ですから、そういう状態にある人の話を聞いていると、その特徴がよく表れているものです。そういう人は過去と似たような状況になると、毎回判で押したように同じ言い回しで同じことを言います。その主張は前回と(気持ち悪いぐらい)同じもので、まったく何の進歩も進展も見られません。そして必ず同じ失敗をします。

                    それは人間が「過去の自分(の過ち)に支配された姿」に他ならず、ただ霊層が低いため言葉が使えない本人に成り代わって「自我霊や想像霊」にそれを代行してもらっているに過ぎません。(逆に「彼ら」の働きが無ければ、この時点で人間は「人間らしい体裁」さえも保てていないはずですので、むしろ感謝すべきです。)

                     

                    この状況は一見すると「無限サイクル」のように思えますが、唯一ここから脱出して霊層を上げ、自らの言葉を取り戻す方法が有ります。それは「無駄口を慎むべし」と心に誓い、それを(文字通り)黙々と実行することです。それは言い換えれば「不言実行」を自らの信条(ライフスタイル)とすることです。それは「必要な期間」継続する必要が有ります。それはもちろん「安全圏まで霊層を上げる期間」という意味です。

                    何故そうする事が必要か?それは実際に行なって見れば「すぐに解る」ことです。

                     

                    因みに幼少期に於ける「ナンで?どうして?」などの言葉は概ね本人の発するものです。ですから「言葉を取り戻す」という表現となります。

                    | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 07:57 | comments(0) | - |
                    売られたケンカは買わない
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                      シリアで「アサド政権によって化学兵器が使用された」とされ、それに対する報復措置として「アメリカ軍によるミサイル攻撃が行われた」とされる件では、罪のない赤ん坊までが無惨にも犠牲になった事が許せないという論調が(その映像と共に)人々の想像力を刺激し、情緒的反応に訴え掛けているようです。

                       

                      しかし、こと想像力に関して言えば、大昔の様に「戦争は限定された合戦の場にて軍隊同士が決するもの」であるならまだしも、(内戦であれ国家間であれ)近代の戦争に於いては、子どもを含む一般市民を巻き込まない事自体考え難い状況で、ただそこにはそれらの被害の実態が「映像化され公表されるかされないか」の違いしか有りません。

                       

                      要は一旦戦争となれば、砲爆撃であれ地雷であれ飢餓や感染症であれ、「赤ん坊が死ぬ」事は間違い有りませんし、それが「真っ当な想像力」だと思います。(この期に及んでまさか「いや、死に方が問題なのだ」という人はいないと思います。)

                       

                      しかし不思議なことに今回の件では、問題の「赤ん坊の死」が新たな攻撃の火種になっています。もしまともな感覚であれば、これは「一刻も早い停戦合意」に向けた動きとなって当然と思われますが、いったいどういう思考回路の下にそれが戦争拡大の方向に向かうのでしょうか。

                       

                      世の中には「やられたらやり返す」事で、相手を牽制したり抑制出来るという考え方の人が多い様です。しかしそれでは「力の均衡を保つ」ことにはなっても、接点に圧力(=ストレス)が掛かり続けた状態であり、そもそもエネルギーの無駄ばかりが生じる上、何の解決にも至りません。(軍産ビジネスには好都合ですが。)

                       

                      本当に平和な世界、穏やかな社会を望む気持ちがあるのなら、決して「売られたケンカを買わない」ことです。そう心に決める時、人は今の自分に「何が必要で何が足りないのか」が、初めて判るものです。

                      人々が本気でそれを行わない限り、「赤ん坊の死」は止まらないでしょう。

                      | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 17:59 | comments(0) | - |
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