青少年の何でも書き込み寺 (大人も可)

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自分の命とどう向き合うか
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    今月も様々な検索キーワードを以って当ブログにお越し頂いた方々がいらっしゃいます。
    相変わらず「公共の精神」に関するキーワードが多いのですが、それについては過去の記事でも重点的に扱って来ておりますので、まとめの意味で「こちら」をご参照頂くか、またはページ右上の「ブログ内検索」をご利用下さい。

     

    また、ちょっと心配なキーワードに「死ねば楽になる」といったものがあります。これも同じく過去記事で「そうじゃない」ことをしっかりご説明させて頂いています。同じく「こちら」をご参照頂くか、またはページ右上の「ブログ内検索」をご利用下さい。

     

    そう言えば先頃も「イジメを苦に自殺した13歳の少女の写真」にまつわる話がありました。本当に気の毒で残念な話ですが、ここでハッキリ言える事が2つ有ります。それは「子どもの苦しみは、即大人の苦しみであり社会の苦しみである」という事と「子ども社会の不条理は大人社会の不条理の映しである」という余りにも分かり切った話ですが、最大の問題は、それを大人たちの誰一人として認めようとせず、「最近の子どもたち特有の傾向と問題」として「監視や指導の徹底」などと、お門違いも甚だしい方向へ話を逸そうとしている事です。

     

    いわゆる大人目線で言うところの「悪い子」「ダメな子」「困った子」は、みんな「悪い大人社会」が(それと承知で)作り出したもの、というのが真実で、それ以上に正しい答えなどどこにも有りません。もし「証拠を見せろ」と言うなら(霊的に)「社会を形成し、社会に迎合する大人たちの霊層段階」を見れば一目瞭然で、実際低すぎてお話にもなりません。(霊層段階は一部、顔の相にも出るので、そうなると文字通り「子どもに顔向け出来ない状態」です。)

     

    因みに「社会悪」の根源は「我欲(=利己主義)の奨励」と「獲得競争(=排他主義)の推奨」であり、これらは長らく「経済発展の原動力」と考えられてきた様ですが、結果的には「富の集中(=搾取)の原動力」でしかなく、本来の「社会発展の原動力」である「人間性」の破壊を伴い、社会環境(=人間関係)を著しく荒廃させるものでしかなかったのです。

     

    そのため現代社会に於ける人間関係とは、「利益の共通」のみによって保たれ、逆に「利益の相反に対して極めて冷酷」にならざるを得ないということです。

    そうした「社会悪」が「子ども社会」にそのまま反映されれば「気の合う者同士(=利害の共通)とはやたらツルミたがり、ウザい者(=利益の相反)は徹底的にイジメ抜き排除する」という身勝手極まりない振る舞いさえも(内面的に)正当化される事になります。子どもたちはきっとこう言います。「だって大人はみんなそうじゃんかヨ」と。

     

    つまり大人たちの「失われた人間性」が回復しない限り、被害者、加害者を含めて子どもたちは救われません。その間せめて(心ある大人たちによる)「緊急避難」の仕組みが作られ、機能する事を願うばかりです。

     

    何れにせよ、当ブログの過去記事には「人が苦しみから脱却し、快適で有意義な人生を送る」ための基本的な智慧と実践方法が随所に散りばめられています。ブログという形式上、項目別に読み易い形とは言い難いのですが、例えば「人生の目的」「ずるい人」などといった特徴的なキーワードで、ページ右上の「ブログ内検索」を活用して頂く事で、生きる上でのほとんどの疑問に対する答えが得られるはずです。(更に掘り下げて知りたい人は、コメントやメールを利用することで個別に対応可能です。)

    | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 11:16 | comments(0) | - |
    「ジョセフ・ティテル氏の予言」について
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      「世界の裏側ニュース」に興味深い記事がアップされました。タイトルが〈ジョセフ・ティテル氏の最新予言「真実と崩壊の年」〉というもので、(全文が長いため)今回はその序章とも言うべき部分の掲載に留められている様ですが、(私はジョセフ・ティテル氏がどういう方であるかの知識は有りませんが)少なくともその文章が(翻訳されたものであるにしても)秀逸である事は十分に感じられるもので、ご一読をお勧めします。

      記事はこちら→ http://ameblo.jp/wake-up-japan/entry-12211719711.html

       

      私自身は「未来を予言する事」については消極的にならざるを得ません。何故なら予言というものは相手に対してインパクトは与えるものの、凡そ「説得力」を持たせる事が難しいものだからです。そのため感情的に受け取られがちになり、なかなか人々の(論理的)理解を深めるところまでには至りません。しかし秀逸な予言であれば、その可能性が無いとも言えません。

      それはともあれ、今回のジョセフ・ティテル氏の文章に関して、以下に私なりのポイントを掲げて見たいと思います。(青字部分は私の見解です。)

       

      (引用開始)

       

      ○ 私たちみんなにとってより良い世界にするためにご自分の役目を行い始めてください。この地球という美しい惑星を私たちの未来の世代、子供たちや孫などにとってより良い場所にすることが大事なのです。

      当ブログの「みんなが良くなる社会、みんなで良くする社会」という主旨と同じです。

       

      ○ (未来は)神の意志で、私たちの未来に限ってはすべてがすでに定められているという人たちは、単純で完全などうでもいい話をしていることになります。これは全く事実ではない、というだけのことです。

      「単純で完全な」の部分は「単純過ぎて完全に」と読み替えると意味が通じます。またここでの「未来の不確定性」は「個人レベルの未来」に付いての記述と思われます。(全体としての未来の方向性は幸いにも確定しているからです。)

       

      ○ 事実は、私たちが現在いる状態から可能性のある未来の道筋を知ることで、私たちが望む結果が万人にとって望ましいものである限りは、その未来をずっとポジティブであるべき方向性、望む未来へとシフトさせることが可能である、ということです。

      社会的なより良いムーブメントに対して(暗に)「個人として関わりを持つことの必要性、重要性」を説いている様に思われます。

       

      ○ 今は大変化の時で、終わりが近いと一部の人は考え、他の人にもそう思わせていることでしょう。これは全くその通りではないから安心しても大丈夫です。大きな変化が起こることは間違いがありません。無事に通過できない人も多いですが、ほとんどの人は大丈夫です。

      「無事に通過できない人も多い」という記述を看過してはなりません。少なくとも自分がその中に含まれない様に、細心の注意と懸命な努力は必要です。(人間性がすべてです。)

       

      ○ 私たちの最も高い善意のためにはもはや役に立たなくなった古いシステムは崩壊しますが、これはよりよいシステムが実現するために必要なことです。

      人間の我欲に起因する多くのシステムや組織は不要になるということです。

       

      ○ 物事を違った方法で行うという挑戦が私たちを待ち構えています。私たちが物事を違った方法で行わないと、ユニバースが介入し、そうなると私たちには選択肢が残されていない(訳注:変化を起こさざるをえなくなる)状態になります。

      場合によっては観念を180度切り替える必要性も出て来るということです。この場合の「ユニバース」とは「霊界」という意味に理解する事も出来ます。とにかく「乗り遅れない」ことです。

       

      ○ この惑星上での権力をめぐる抗争があります。地球がこのシフトを通過するにあたり、権力をあまりにも長く持ち続けてきたエリート層が、とうとう権力を失うことは重要なことです。私たちが見たり聞いたりするクレイジーなことすべては、彼らの責任ですから。人民が力を取り戻す時ですが、エリート層や悪魔主義者は激しい抵抗なしでは引き下がらないでしょう。

      「クレイジーなことすべては、彼らの責任」という記述がありますが、例え「発信元」がそうだとしても、それに「迎合」するような在り方も「同罪」となる可能性を踏まえて、自らの生き方を吟味する必要が有ります。

       

      (引用終了)

       

      以下に優れた啓蒙、啓発であろうと、受け手の素養次第ではその価値をまったく活かせない場合も多々有ります。例えば「予言」の是非を問う以前に「霊的な構造的理解」もしくは「人間性を豊かにする」など、受け手の素養を高めておく必要があると思われます。

       

      | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 09:00 | comments(0) | - |
      人は計画を立て、それを行なう。
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        今日は余り時間がないので、要点を手短に書こうと思います。

         

        これまで「霊界ではその完全無欠な計画のもとに粛々と事が進行している」ことを申し上げてきました。この流れを妨げる事は何者であろうと(例え悪魔と言えども)不可能です。何故ならその計画には一切の「未知数や不確定要素」が存在しないからです。(下線部分を良く理解する事が重要です。)

         

        但し、私たち一人ひとりが「その事」とどのように関わろうとしているかは、また「別問題」です。出来ればより良い形で関わりたいものですが、中には「良くない形で関わってしまう人々」もいます。しかし、それが「霊界の計画」の進捗に影響を及ぼすというようなことは決して無い事は、前段で説明した通りです。

        つまり私たち個々の「霊界との関わり方」が私たち自身と、その連帯責任範囲の人々(や霊魂)の幸、不幸に影響することは事実ですが、その事が大勢に与える影響は「皆無」だという事です。

         

        では、私たちと「霊界との関わり方」を決定付けるものとは何でしょうか。

        答えは「人間性」です。人間性を磨く事が「唯一の備え」となります。

        そうすれば(その人にふさわしい)「霊界の要請」が(ごく自然に)「使命感や責任感」という形で想起される事となり、それを動機として「人は計画を立て、それを行なう」事となります。(結果は霊界が担保します。)

         

        因みに、人間性を介さない「インスピレーション」は、霊界からのものとは言えません。(危険を伴う場合が有ります。)

        | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 10:39 | comments(0) | - |
        「霊的奥義」について
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          昨日の記事で「奥義が気になった」という方もおられるかも知れませんので、それに関連して書きます。

           

          辞書的には「奥義(おうぎ)」とは、〈学問・技芸・武芸などの最も奥深い大切な事柄。 極意。おくぎ。〉などとされていますが、「霊的」に関して言えば「(真理や実相であるにも関わらず)受け入れるために(その分野での)ある程度以上の素養と心の準備を要し、そうでないと逆に弊害をもたらす事が予想される性質を有する内容を持つもの」の事で、別の言い方をすれば「(ランダムでは無く)順を追って理解に至る必要の有る事柄」という事になると思います。つまり「弊害」を生ずる恐れがあるため、安易に「受け手の解釈」に委ねる訳に行かない性質のものという事です。

           

          それに対して、同じ「霊的」であっても「理解力の差や素養の有無」が直接「弊害」に結び付く恐れの考え難い内容に関しては、当然ながら特に「話す相手を選ぶ」必要は生じません。ただ、聞いた人の理解力に依って「理解の度合い」が異なるに過ぎません。

          従って、当ブログでこれまで「証明出来ない?大事なお話」というカテゴリーのもとにお話してきた事は、そのような謂わば「聞き手の理解力に依存して良い(ギリギリの)内容」ということです。

           

          私の場合、それらの「線引き」は、理解の際に「一般論や一般(の文化的)常識、一般に用いられるイメージ」など、それは例えば「格言やことわざ」「偉人や先人たちの業績」「自然や人間社会に対する認識」などを引き合いにしながら、各自がその都度容易に「イメージ化」出来る範囲のものか否かということになると思います。

          もし「イメージ化」が困難となれば、その時点で人は混乱し、その先無理やり作られたイメージは決して正しいものとはなりません。それらは「弊害」即ち、人を誤った方向へ導く恐れが有るということになります。

           

          むしろ「奥義」とは、自ら道を求める者が探求を重ねた末に「もしかしてこうではなかろうか」と行き着いた先で「提示されるべきもの」と思われます。その際の「やっぱりか!」という感動は果たして幾ばくのもので有りましょうか。そのような人は「奥義」を大切にし、それを十分に活かすことの出来る人です。

          | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 09:56 | comments(0) | - |
          「霊界」と歩調を合わせる人々
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            昨日は「昨今の悪の暴走」について書きましたが、その裏では(非常に地味な変化ですが)「霊界」と歩調を合わせるかの如くに言葉し、行動する人々の存在が垣間見える様になって来ました。それらの人々の多くはたいへん優秀であり、豊かな専門性を有した方々も数多く見受けられます。

             

            そうした人々が主にネットを通じて代わるがわる情報発信を行なっている訳ですが、それぞれにアプローチの仕方に違いはあれど、そこには或る共通性が有るように思えます。

            それは「おかしいものはおかしいし、変なものは変」という、理屈を越えた「感性の叫び」です。もちろん、何れ劣らぬ優秀な人々ですから単に「やだーッ!」と叫んで終わりでは無く、情報発信に於いては(それぞれの専門性を混じえて)理路整然と為されますが、それらは(心無い学者のそれの様な)知識の羅列などでは決して無く、誰にでもわかるし、わかって欲しいという「切実な訴え掛け」が特長となっています。

             

            また、そのような人々の主張や行動には一様に品格が有り、徹底した平和主義者であって、その心根は「優しさ」が主役となっていますが、同時に「優しさを貫徹するための強さ」も持ち合わせている事が感じ取れます。つまり何れも「責任」とは、それ自体が「強さ」であることを体現した人々であるということです。

            そのような、一見すると互いに「横の繋がり」を持たない(にも関わらず何故か似通った)人々が、ここに来て(地味ではあるが)それぞれが活発な動きを示す様になって来た事には、いったいどのような意味があるのでしょうか。

             

            それは「霊界のセッティング」が完了したこと、または「変革のためのカウントダウン」が開始されたことと関連があると考えられます。(リンクをクリックするとそれぞれの記事を参照出来ます。)

            と言うのも「霊界は常に人間社会の実情に鑑み、その都度必要な人材、智慧、能力、技術その他必要とされるすべてを提供する」という仕組みになっているからです。それはもちろん「人の身を通じて」ということで、天から何かが降ってくる訳では有りません。つまり「人の身に湧き起こさせる」のです。「霊界」にとってして見れば、そんな事はとても簡単なことで、そうでなければ数万年に及ぶ「完全無欠な計画」を進行させる事など到底出来ません。

             

            思えば「悪魔崇拝」を標榜する「困った人々」でさえ数十年から数百年単位の行程表(=アジェンダ)に則って行動していると言います。増して本家本元の「霊界」が物事に対して“アバウト”であろうはずもないのです。(因みに悪魔の発想にオリジナルはほぼ無く、ほとんどが霊界の盗用です。)

             

            話が逸れましたが、要は「人は霊界の影響即ち指示、指導、保護のもとに一念発起し、行動するもの」という認識は決して誤りではなく、そうした「自覚の有無」に関わらず、物事はあるべき方向へ進行して行きますが、もちろん自覚が持てるに越したことは有りません。何故なら、その際「やる気」だけは自前のものとして、それに「誇り」を持ち、より大切に思える様になるからです。

             

            (今日は「寸止め」のお話です。これ以上は(霊的)奥義となり、一般向けとは言えません。)

            | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 09:11 | comments(0) | - |
            「悪の暴走」が始まっています。
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              古今東西「悪」は闇に紛れて(その存在を隠しながら)悪事を働くものです。そして少なくとも「悪事」は、常にそれとバレない様にしなければなりません。何故なら人間社会が、その意義や構造上「共存共栄」とされている限り、社会の「建前」自体を「正義(=利他)から悪(=利己)へ逆転させる」事は不可能だからです。

              ですから小規模な悪行は「闇に紛れ、人目を忍んで」行われ、国家レベルの様に(姿を隠し難い)大規模な悪行は「大義名分や傀儡(政権)などの陰」に隠れて為されて来た経緯が有ります。(もちろん、後からバレるケースも多々有りますが。)

               

              ところがこのところ、個人レベルだろうが国家レベルだろうが規模の大小を問わず、露骨に見苦しい姿や醜い本性を曝け出し、悪人が大手を振って悪行に手を染めるケースが多発するようになりました。もちろん社会は(如何に悪が蔓延しているとは言え)建前上、それを許す訳には行きません。中にはそれに対して露骨に庇い立てしたり、隠蔽を計る輩も現れますが、今度はそれ自体が「露骨な悪行」として新たな糾弾の的となります。こんな有様では、本当に刑務所がいくつ有っても足りない状態になってしまいそうですが、この昨今の「悪の暴走ぶり」は、いったいどうした事なのでしょうか。

               

              おそらく当人たちは(良かれと思い)「無自覚」のまま暴走しているに違い有りません。(どう考えても自殺行為ですので。)そして「人間が無自覚のまま自殺行為に及ぶ理由」はひとつしか有りません。それは「操られている」からです。何に?それは「悪魔(邪神、邪霊)」の類(たぐい)かも知れませんし、「霊界」かも知れませんが、忘れてはならないのは「悪魔は決して人間の幸福に寄与するための存在ではない」という事です。そして悪魔が人間を悪行へと誘うのも、どこかで勝手に操りの糸を切るのも、すべて「悪魔の一方的な都合」に過ぎないという事も忘れてはなりません。(それは常に人間にとって最悪なタイミングで為されるでしょう。)

              少なくとも「悪魔の本当の目的」を知る者は、絶対に悪魔と関わったりはしません。

               

              因みにそれまで「悪魔に操られていた人間」が操りの糸を切られた場合、たちまち「霊界の因縁」が発動します。当然それは当人の悪行に見合ったものですから、場合によっては「耐え難い苦しみ」に見舞われる事になりますが、ここでも忘れてならないのが「悪魔に操られるままに犯した悪行の報いのすべては(悪魔ではなく)本人が負うことになる。」という不文律が存在する事です。

              そんなお先真っ暗で絶望的な未来と知ってか知らずか、一時の自己満足を得たいがために「悪魔」と関わる人々の気が知れないと同時に、気の毒としか言い様が有りません。

               

              つまり昨今の「悪の暴走」は、決して「悪の天下到来」を示すものではなく、逆に「悪の自己崩壊の兆候」の現れと見て良いでしょう。とは言え、社会が無傷で済むはずも無く、良識有る人々もそれなりの覚悟で望む必要が有りますが、一人ひとりが「社会に対して責任を負う心」を(これまで以上に)持てれば、みんなの努力で「大難を小難」とすることは可能です。

              増して「子どもたちの未来」が掛かっているとなれば、ひと肌もふた肌も脱げるのが「真っ当な大人」と言えるのではないでしょうか。

               

              これからはそれぞれが自分の持ち場でベストを尽くすこと。それしか有りません。

               

              | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 11:38 | comments(0) | - |
              「因縁」の本当の意味
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                人が生きる上で「自分の身に及ぶあらゆる事」は、日常的な出来事から特殊な体験に至るまで、すべて「因縁」の為せる技と見て良いでしょう。例えば「日本人」として日本で生まれ育つことも因縁ならば、今の家族構成や暮らし向きも(好き嫌いを問わず)因縁で、現在の仕事や立場も因縁上のものであれば、突然巻き込まれる(私たちが不幸と感じるところの)事件や事故、病気すらも因縁有ってのものと言わざるを得ません。

                 

                このように、私たちの人生のすべてが「因縁」で成り立っているという理解は完全に正しく、それ故私たちは「あらゆる因縁(=あらゆる人生の局面)に対して常に真摯に向き合わなければならない」ということです。

                何故なら、私たちの持つ因縁の一部には「自らの霊魂の起源」など、絶対的で変更不能な要素も存在するものの、それ以外の多くの因縁に関しては「相応にアップグレードもしくは追加、無効化」などの変更が加えられる仕組みになっているからです。(但し変更は霊界の規定に従って行われます。)

                 

                さて、この「因縁に真摯に向き合う」とは、具体的にどういうことでしょうか。それは、どんな事にも「不平や不満、愚痴を以って半身に構えたり後ろ向きになったりせず、真正面で向き合い自分のベストを尽くす」或いは「常に人間性を以って自分の一番良いものを出し切る」でも良いでしょう。

                何れにせよ肝心な事は、どんな些細な(と思われる)物事に対しても「ずるさによる打算、計算、さじ加減をせず全力で望む」ということです。何故なら人間は「邪念、邪推によって物事を見誤るのが常」だからで、そうならないためには(前述の如く)「幼い子どもに等しい行動論理(=童心)」が必要となります。

                 

                ここで改めて「因縁とは何か」と問われるならば、「自分自身の成り立ちや過去の思想、想念、所業のすべてが反映された総体的な結果としての今現在の作業場であり、作業環境そのもの」と、些か長くなりますが、切り詰めて言うと「今の自分にふさわしい固有の作業場」の事です。そこには自ずと「他人には関係ない」というニュアンスが含まれており、如何なる場合に於いても「今の自分を他人と見比べることは無意味で弊害にしかならない」ことを物語っています。

                 

                大人になるとは「打算や計算に長ける」ことではなく、「童心をパワーアップ」することです。何故なら「童心こそが霊界直結の論理」で、「おかしいものをおかしいとする力」を秘めているからです。

                ですから皆さんも夢々「子どもの童心を毒する」ことの無い様、よろしくお願い致します。

                | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 10:41 | comments(0) | - |
                悪魔または悪魔的な因縁に至る経緯について
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                  前回の記事でご説明した通り、「霊的な因縁話」が社会的に通用し適用される事は有りませんが、人が悪魔の仕掛けた罠に嵌まる、即ち「人が悪魔的な因縁を持つに至る経緯、その過程」については(ある程度具体的イメージとして)知っておいた方が良いと思います。それによって一人でも多くの人たちが「あっ、これは罠だ!」と気付き、その道を避けて通られる事を望みます。

                   

                  まず、人間は誰しも生きる上で「それとなく目指しているもの」があるはずです。その全体的なイメージが「生きる目的」で、個々の案件が「都度の目標」となりますが、それらは初めから固定化されたものと言うよりは、人が現実に生きる中で「様々な経験や体験」と共に変節を繰り返しながら「徐々に形成されて行くもの」かも知れません。

                   

                  しかしこの「生きる目的とそれに準ずる目標」は、大別すれば「二通り」しか有りません。即ちそれが「利己的な自己満足」に通ずるものであるか否かという事です。そしてもし、(不幸にも)前者を選んでしまった場合、その時点で「非常に多くの悪魔の罠が仕掛けられた道」を選択してしまった事になります。何故なら、自己満足の大半は「物欲か立場欲」と相場が決まっているからです。

                   

                  「物欲」とは、人間の五感に対して「安堵や快感」を多分にもたらす事により、人を「揺るぎない生存権の確信」に導くものと言って良いでしょう。

                  一方の「立場欲」とは、主に「己と利害の相反しがちな他者という存在」に対して(圧倒的に)優位に振る舞う事によって、やはり「揺るぎない生存権の確信」に至ろうとすることですから、双方ともに「生存権の主張」が根底に存在することになります。

                   

                  ところが、ここにひとつの問題が発生します。それは即ち「己の生存権の殊更な主張(=欲望の追求)は、必ずや「他者の生存権を圧迫し、脅かす結果となる」ということで、それが「利己的」という意味です。そして次には「利己的(=自己中心的)で在り続けるためには何が必要か」ということになります。

                  その際「最も邪魔になるものが人間性」となります。他者が圧迫を受けて苦しみ、場合によっては生存権を失った末に命を落とす事があったとしても、そんな事で一々動揺しない心、即ち「冷酷、薄情あるいは無関心」であるためには「共生を基本とする人間性」を排除しなければなりません。

                   

                  そこでいよいよ(満を持して)悪魔の登場となります。悪魔は人間に対して、決して「冷酷非情になれ」などとは言いません。(だから罠なのですが)その代わりに「競争力、仕事力、責任力、やる気、充実感、夢」などと、非常に紛らわしい言葉を用いて人々を罠へ誘い込みます。

                  要は言葉の問題ではなく「思想と目的」が問題なのですが、人はそれに気付く事なく(言葉巧みに操られるままに)我先に「人間性の排除」を行ない続けます。

                   

                  話が長くなるので一旦絞めますが、とにかく「お金になびかず権力に服する事なく、自らもそれを求めないこと」です。(そうすれば悪魔と無縁になれます。)

                   

                   

                   

                  | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 09:02 | comments(0) | - |
                  この世の「タブー」は「霊界」の常識です。
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                    「霊界では常識」であっても、この世の人間社会では「言ってはダメだし考えてもイケナイ」とされている事が有ります。それはもちろん法律を作る際にも反映されていますし、社会倫理としても決して認められることは無いでしょう。故にその「霊界の常識」は個々の人間が胸の内に秘めたままにしておかなければならないと言うことです。つまりその事は、人間相互の「暗黙の了解」として機能することが好ましいとされ、おそらくはそれが現時点に於ける「正解」でしょう。何故なら、それは「目に見えないもの」であるからして、それを「目に見えるもの同様」に扱うとなると、別の意味での混乱が生じる事は(現時点では)必至だからです。

                     

                    さて、そういった意味を為す「この世のタブー」とはいったい何でしょうか。

                    それは「人の身に起こる事象の全ては因縁通りという認識」を持つことです。この事は(霊的には)宇宙のあらゆる事象は「原因結果の法則」に基づくものと理解され、それ自体が不可欠の認識であり常識ですが、人間にまつわる「結果」に対してそれを当てはめ、「原因」を正確に認識しようとするならば、前世や過去の想念や所業の正確なデータは言うに及ばず、そもそも「その人の霊魂の起源」までさかのぼった膨大な量に及ぶ「全データ」が必要になります。

                    (もちろん「霊界」には全てのデータが存在しますが)「現界」でそれを入手し精査することなど到底不可能なので、この世では「目に見えない霊的要素」を他人に対する「客観的な判断材料」とする事をタブーとすることが一応の「正解」とされている訳です。

                     

                    このように「霊的理解」というものは、(現時点では)それを共通の認識とし、それを基軸として「社会基盤」を整備するためのものでは有りません。では人は何のために「霊的理解」を必要とされているのでしょうか。

                    それは簡単に言えば自分自身の「転ばぬ先の杖」にするためです。人は「霊的理解」が進むに連れて「そこはかとなく(何となく)」自分自身を知る様になります。例えば「善悪の有無」「徳、不徳の観念」「責任の意味や大小」「死生観」など、自分に対して(正確に知る必要までは無くても)何となく解るだけで十分に方向性が見えてくるものです。人間にとっては(物事に秀でる事よりも)「見当違いの方向に進まない」ということがとても重要なのです。まさに「霊的理解」とはそのためにあると言っても過言では有りません。

                     

                    因みに「悪魔に魅せられた人たち」は、そのような簡単な話さえ理解出来ない人々です。だから操られるまま、それこそ自分が「崖っぷち」に立たされていても、悲しいかなそれが「わからない」のです。「魔の手」という「因縁」の存在すらも理解出来ないのです。

                    | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 08:57 | comments(0) | - |
                    「善悪」の概念こそが最後の防壁
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                      「善悪」の概念を持つこと自体、その人が(無意識に)「霊的」を受け入れる事になります。何故ならそれは「物的な利害得失」に関わりなく存在するものだからです。他方でもし「霊的が存在しない」とするならば、そこには「物的な利害得失」の問題しか存在しない事になります。そして如何にキレイ事を言おうと、それが自分という存在を定義付けるための柱となることは間違い有りません。即ち「同盟も敵対も、共有も占有も、譲渡も搾取も、全てが(遺伝子レベルでの)自己保存の手段や方法でしかない」ということになり、あらゆるものが個人にとっては「生存環境の一部」と見なされます。

                      このように「霊的(=神)」の存在を疑う事で、人は必然的に「唯物思想」に追い込まれる事となり、その結果として「善悪」の概念を失います。

                       

                      ところで不思議な事に、世界の「支配層」と呼ばれる者たちに限って「悪魔崇拝」に血道を上げているとの事ですが、こうした場合「善悪の概念が消失している」とは極めて考え難いと思います。何故なら当の「悪魔」自体が「霊的な存在」ですから、当然「霊的(=神)」の存在を認めざるを得ない訳です。にも関わらず公然と「悪魔崇拝」を行なうという事は、彼らが現時点では「神よりも悪魔の方が上」と認識しているという意味となり、この事は神から見れば「慢心」であり「反逆」でしか有りません。しかしそれにしては、彼らはやること為すことが殊の外上手くイッているようにも見えますので、まあ「悪魔が上」と信じたい気持ちもわからないでは有りません。(少なくとも天罰テキメンとはなっていない。)

                       

                      しかし、ここでもうひとつ不思議な事が有ります。「悪魔は元々霊的な存在」ですから「唯物的な支配」などに関心があろうはずも有りません。つまり「悪魔が人間にもたらす唯物的利益はすべてエサ」でしかないと言うことです。では「悪魔の本当の(霊的な)目的」は何かということですが、例えば「悪い人間の情念や苦しむ人間の怨念をエサにする、またはそれらを見て楽しむ」「神に対する妨害、嫌がらせをして楽しむ」など、何れも(矮小過ぎて)有り得ません。もう少しまともっぽいところでは「神に代わって地上を支配する」となりますが、仮に「心を持たない腑の抜けた人間」を思いのままに操って見たところで、何の面白味があると言うのでしょうか。従ってこれも悪魔が何千年も掛けて行なってきた一大プロジェクトの結末としては(余りにも虚し過ぎて)有り得ません。

                       

                      私は故あって「悪魔(=邪神、邪霊)」の事は、良く知っていますから、別に想像で物を言っている訳では有りません。ですから実際に「どんな風に人が操られ、人の内面がどんな状態になるのか」も解っています。

                      この瞬間にも(地上の混乱をよそに)「霊界」は整然としており、厳格にそして粛々と事が進行しています。それを知った上で敢えて断言するならば、人は悪魔を恐れる以前にその何倍も「霊界」を畏れるべきだと思います。何故ならそこでは「悪魔の真の目的」とのクロスフェードを垣間見ることも出来るからです。

                      | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 08:46 | comments(0) | - |
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