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なぜ「人の命は何よりも尊い」のか?その2
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    そもそも「尊い」とは、「敬うべき高い価値がある」という意味ですが、そこには「利害損得」の概念は殆ど無く、むしろ「神聖」に通ずるような「無条件に受け入れるべきもの」というイメージかと思われます。
    これは普通に考えれば、「自分の命=自分=尊い」という図式となり、その人がもしも「自分という人間はそれほど立派じゃない」と思っているとすれば、それだけで既に「受け入れがたい考え方」になってしまいます。もちろん他人に対しても同様で、「何だ、あんなヤツ」と思った時点で、相手(=相手の命)は「尊さ」とは無縁のものとなってしまうでしょう。そのような意味でも、ただ「命は尊い」と連呼しただけでは、人の気持ちを動かすのは難しいと思います。

    話は変わりますが、人間以外の地球上の生物は、総体として「地球環境を適正に保つ」という崇高な目的のために、日夜惜しみなく働いています。おそらく彼らにはその意識は無く、地球全体の状況を把握出来ている訳でも有りませんが、そこには「本能に組み込まれた生態を全ての生物が確実に実行」することで、奇しくもそのような結果(成果)に結びついているという事実が有り、私はその事を以って「全ての生物は尊い」という結論を持ち得ます。
    そこにあるのは「豊かな地球環境の保全という崇高な目的」と、「生命個々が互いに自己主張することなく、全体のバランスの中での自らの命と行動の意味を(無意識とは言え)100%受け入れている凄(すご)さ」です。

    私たち人間が、地球上に於いて「彼ら」に匹敵する働きと存在感を示すためには、私たちが「動植物の本能に代わるもの」として私たちの中にあらかじめ組み込まれている「人間性」を最大限に活用する必要が有ると考えます。何故なら「人間の持つ本能」には「他の生物に見られるような利他的要素」は殆ど見られず、単純に「自己防衛的要素」に限定されていると考えられるからです。これは人間が本能的に行動した場合には、自ずと「生存圏の拡大」という方向性に向かい、必ず「他者や他生物を圧迫する存在」となる事を示しており、これはわざわざ歴史を紐解くまでもなく、「現状が正(まさ)にその通り」となっております。

    「人間性」の中には「みんなで良くなろう、という崇高な目的」と、「惜しみなく実行するためのエネルギー」が既に組み込まれていますので、有史以前より他生物によって営々と築き上げられてきた「豊かな地球環境」を引き継ぎ、英知を結集して「自然環境と調和したバランスの良い人間社会」を構築することなど朝飯前に出来るはずです。
    つまり「人の命の尊さ」とは「人間性の無類の価値の高さ」を示しているのです。そして「全ての人が尊い」のは、「全ての人が同じ人間性を備えている」からに他なりません。ただ現状に於いては「人間性を発揮している人」と「人間性を発揮出来ていない人」の違いが有るのみです。

    私が思うに、今の社会のように「個々の利害得失」が最優先される中で「命の尊さ」を論じて見ても、何の意味も有りません。何故なら「個々が生存権を主張する」という「本能レベル」の脈絡の中で、「命が尊いはずも無い」からです。そんなことに時間と労力を費やす暇があるなら、自らが「人間性に基づいた行動」を以って「人間の尊厳」を身を以って示す努力をすべきだと思います。もし、それが出来ないというなら、「人間性を活用出来ない人間は、その時点であらゆる動植物に劣っている」というところから理解に努めてください。その理由は前述した通りです。
    因みに、知識も、学力も、経験も、人脈も、お金すらも、「人間性によって活用されるべきもの」であると思います。私は「人間が人間らしく生きる道」は、それしかないと信じています。
    | 青少年の味方の人 | 大人になるための大事なこと | 09:38 | comments(0) | - |
    なぜ「人の命は何よりも尊い」のか?
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      これは宗教的(=神様的)には「人の命は神様が与えたものなので唯一無二の掛け替えのないもの」ということになると思います。しかし日本は憲法によって「神を信じるか信じないかはその人の自由」と定められているので、社会全体としては、これとは別の「理解の仕方」が不可欠となります。そしてもし、それがうまく出来なければ「人の命は必ずしも尊いとは言えない」という考え方すら受け入れざるを得なくなってしまいます。それ故、これはどうしてもクリアしなければならない問題なのです。

      まず、単純な問題から解決して行きたいと思います。
      「自分の命と他人の命は、どちらが尊いですか?」と問われて「自分の命の方が尊い」と答える人は殆どいないはずです。答えは多分そうではなく「どちらが尊いかは解らないが、自分の命は大事」ということになると思います。みなさん、実はこれはとても重要な事なのです。
      このように人は普段、無意識に自分や他人の「命の重さ」を量(はか)っているものです。大ざっぱに「自分と他人」と見れば、「自分の方が重い」と感じるのは当然とも言えますが、一口に「他人」と言っても、実はその中にいろいろ有るのが普通です。例えば親しい人や関わりの大きい人、身近な人たちの命は比較的重く、あまり知らない人、縁もゆかりも無い人たちの命はそれより軽い、といった具合です。
      これは謂わば「自分の命を頂点としたピラミッド型の命のランク付け」と言えます。そして、それは「かなり一般的」なのではないかと思われますが、「社会性」という観点に照らして見ると、実は「重大な欠陥」を含んでいます。

      まず、命を重さとして「量的にランク付けする」ということは、その重さが論理的には「限りなくゼロに近づく可能性」が有ります。
      次に、ランク付けの基準が「自分の都合(=利益)と決して無縁では無い」ことから、「極めて自己中心的な価値判断を伴う可能性」があります。
      これらは何れも社会的に好ましい事とは言えず、仮に「直接人の命に携(たずさ)わる立場」で有る無しに関わらず、「より良い社会の発展、形成」にとって大きなマイナス要素となります。(命の問題はそれだけ重要ということです。)
      そして「何よりも悲しいこと」は、もしアナタが「誰かの命を軽んじる」とすれば、他の誰かによって「アナタの命も軽んじられている」という事実です。何故なら、社会に於いては公平平等の下に「自分自身に容認していることは、他人に対してもそれを容認している」という意味になるからです。
      もしそのことを本気で悲しいと思うなら、「決して人の命を軽んじない」ことです。それだけで十分良い社会になります。

      たぶん、続きが有ります。

      | 青少年の味方の人 | 大人になるための大事なこと | 10:13 | comments(0) | - |
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