青少年の何でも書き込み寺 (大人も可)

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「○○は必要!」という勘違い(=誤認、錯覚)
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    これは近年に於いてはもっぱらスマホ、SNS、インスタ、ラインなどを始めとする、主にネット上で主流とされている種々の会員サービスなどの大半に当てはまる事と言え、古くはテレビ、新聞などの慣習的な視聴、購読にも遡る。それらの共通する最大の特長は「便利」であることもさることながら、むしろ「それをしないと取り残される的な強迫観念」にあると言え、これはちょうどファッションに敏感な人が流行のファッションに乗り遅れた格好で街を歩く時に受ける「疎外感や劣等感」と同等か、より深刻なものと思われる。サービスへの依存度は人によって様々だろうが、場合によっては「無くてはならないもの」「無いと生きられない」ぐらいの感覚かも知れない。しかし現実にそれで生きられなくなるとは考え難く、その時点で既に物事や状況に対する誤認、錯覚が起きていると思われる。

     

    人が利便性の高いものや主流と言われるものに飛び付く気持ちも解らないではないが、その一方では同時にそうした新たな土壌や環境が様々な悪意の温床ともなり、詐欺や成りすまし、イジメ、ストーカー行為、誹謗中傷、フェイクニュース、不適切な煽動や勧誘、個人情報の漏洩などの被害が跡を絶たないのも事実だ。

    現在の環境が「自分にとって本当に(正しい意味で)必要な環境」ならまだしも、必ずしもそうでないならわざわざ「荒れた環境、危険を伴う環境」に(ちょっとぐらい便利だからといって)身を投じる必要はないし、少しでも不安や違和感を感じたら可能な限り速やかに撤退すべきだと思う。そうしたからといって後々困る事など殆ど無い。

     

    因みに自分の場合、現時点で主流とされているサービスの殆どに未加入、もしくは撤退していますしスマホも持っていませんが、社会生活上も何ら不便は感じておりません。パソコンもLinuxで十分。(スタンドアローンの作業用Windowsは有りますが)

    所詮、個人的環境に於ける便利とか不便とか必要とか不要とかは自分で感じて決めることだと思っています。

    | 青少年の味方の人 | 日本社会 | 12:32 | comments(0) | - |
    便利ツールの原点は「薬」です。
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      昨日は「便利ツール」が確実に人間の論理性(=自立性)を衰退させ、やがては訳も分からないままシステムに依存するしかない「危うい状態」に貶めて行くであろう話をしました。何故そう断言出来るのか、それはそもそも「便利」に跳び付く心の傾向自体が「ずるさと欲」という「非論理性」に端を発しているからで、それは「便利」とは本来「論理的に(物事に)要する手間暇を(感覚的に)バイパス(=省略)することで得られる実感」に他ならないからです。(事実「便利屋」という商売の中身はそうなっています。)

       

      ところでこの「便利ツール」の原点が「薬」であることは、ほぼ間違い有りません。特に植物の薬効を主とした生薬の歴史は古く、世界では今から6000年も前にシュメール人が、日本でも4000年以上前の縄文人が既に用いていた痕跡や記録が残されているとのこと。

      こうした薬の役割は当時も今も基本的に同じで、ただ「(感覚的な)体調不良を(感覚的に)改善する」だけのことですが、それは必ずしも「体調不良が起きた論理的道筋に沿って体調の改善を目指す」という意味とは限りません。むしろ荒っぽい言い方をするなら「理屈はどうあれ(体調不良を)感じなくすれば良い」という考え方さえも有って、それも含めて「薬効」と言えるでしょう。

       

      ここでもし「この世に薬というものが無かったらどうなるのか」を想定して見ると、改めて薬の「便利ツール」振りが解ると思います。その場合、私たちの選択肢は病気(=体調不良)に対して前述の如く「体調不良が起きた論理的道筋に沿って体調の改善を目指す」しか無くなるはずです。(例えば「冷え」による症状は温めるしか無く「睡眠不足」による症状は寝るしか無い等。)要するに「原因の究明」が最重要課題であり、病状の改善は「時間と手間を掛けてその逆を辿るしか無い」ということです。

      例えば不摂生や不養生或いは無理を重ねた挙句に3年掛けて痛めた体を元に戻すためには、自然治癒力による修復能力を合わせ考えるなら少なくともその3倍、凡そ10年は掛かると見るのが普通でしょう。それを思う時に、薬というものが如何に「便利を通り越したトンデモツール」であるかが解るというものです。

       

      さて、いよいよここからは「霊的考察」となりますので、関心の有る方のみ読み進めて下さい。

      「霊的」には、薬(という概念)は「神が故有って人間にもたらしたもの」とされていますが、その本当の理由は「病に苦しむ衆生を救うため」と言うような平易で解りやすい話では決して無く、むしろ「エッ、どういうこと?」と一瞬理解に戸惑う様な内容を孕んでいると言えるかも知れません。しかしそれは本来「病、貧、争」からなる人間の不幸の要因に於ける(突出した)薬の存在、或いは薬に依存する人の心の中で何が起きているかを改めて考察することで、自ずと見えてくるものと思われます。(奥義に属するため答えは書きません。)

       

      ただ、この際はっきりと言えることは、私たちには「薬という便利ツールに依存して生きることを良しとするか否か」という選択肢が常に有り、それは他の「便利ツール」に関しても、それぞれに「自分の生き方に対する是非」が論理的に存在することと変わりが有りません。

      (因みに私の場合、薬もスマホも「ノー」です。単にどちらも自分の生き方との接点が無いからです。)

      | 青少年の味方の人 | 霊的考察 | 10:22 | comments(0) | - |
      支配者は「便利な世の中」を作りたがっている
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        それは「人々の幸せ」を願っての事?もちろん表向き(=建前)はそうでしょうが、その本音がどこにあるのかは、自分が「支配者」の立場に立って考えて見ると、すぐに気付きます。

        因みに「便利さ」とは「要求に対する提供サービスの快適度、満足度」として感じられるものですが、その部分が「ノンストレス」の方向性に向かう事にいったい何の文句があると言うのでしょうか?

        この問いに対して当ブログではこれまでにも多くの記事を書いて再三警鐘を鳴らして来ました。(例えば「便利」というキーワードでブログ内を検索して見ると、20以上の記事がヒットしますので、関心をお持ちの方はそちらも参考にして見て下さい。)

         

        ともかくも「(性根の良くない)支配者」の目線で「安定的支配に必要なもの」を列挙して見ることにします。

         

        ○ 人々から「論理的思考力」を奪う。

        ○ 人々に「ちゃちな自己満足」以外の関心を持たせない。

        ○ 人々の「外敵」をでっち上げ、支配者こそが「人々の守護者」と思い込ませる。

        ○ 人々を「仲間割れ」させることで団結力を削ぎ、個々に分断しておく。

        ○ 「強権と適当な社会サービス」によって、人々の「抵抗感」を完全に削ぐ。

         

        私に言わせると、この中の最初に掲げた「人々から論理的思考力を奪う」部分が「支配のための根幹」となります。何故ならそうすることで人々は「筋道を立てて物を考えよう、理解しよう」としなくなり、それはそのまま「支配、被支配」という明確な対立構造すらも「希薄化」させることとなるからです。つまり人々が「支配されていることさえ気付かない」という状態こそが、まさに「理想の支配」ということになります。

        それは例えば、私たちは日頃「自分たちはお金に支配されている」と意識することがないまま「お金に支配されている」のと同じことです。(気が付けば「支配」からの脱却も可能なのですが。)

         

        その上で言うなら、(スマホを始めとする)世の中の便利ツールや機器やシステムの際限ない「自動化」が、人々の「論理的思考力」を既に著しく衰退させていることは明白です。何故なら「ただボタンを押すだけ」の裏でいったい何がどのように行われているのかも、そのような仕組みに依存し切る(=命さえ委ねる)ことの危険性(の有無)さえも、もはや考えることは愚か、気にも留めようともしなくなりつつあるからです。

        強いて言えば、そこには支配者側が「安全」と言えば安全と信じ「危険」と言えば危険と無条件に信じる社会現象が一般化されているだけのことで、これでは個々人の価値判断など「無きに等しい」と言えます。

         

        私は日々報じられる些細な事件や事故、社会現象などから、今の社会が非常に危険な状態にあることを肌で感じています。例えば「ブレーキとアクセルの踏み間違え」や「タンクローリーの横転」「クレーン車の転倒」など、車に関するものだけでも「以前は有り得なかった事が急増」しているように思えますが、これらはみな「論理的思考」が健全に働いていれば(体調の急変でもない限りは)起こり得ないと言い切れます。

        私は今でも運転に際し「最低限の論理性を確保すべく」マニュアル車を運転していますので、(構造的に)ブレーキとアクセルの踏み間違えなど有り得ません。

         

        車の例で言えば、車自体がこの先「自動化」の方向へ向かうに従い、一般ドライバーの意識が逆に「運転の論理性」から遠のいて行くことは(これまでの経緯からも)明白で、「事故を防ぐため」とする国やメーカーの建前はともかくも、それに伴う「新たな問題」が発生することは容易に想像出来ます。(以前にも「自動運転」に関する記事を書いています。)

        もちろん「支配者側」にとって、そんなことはとっくに「想定済み」の事で、それよりも高額商品である車を売り続けることと、自動化による「(間接的な)支配力強化の一環」としての意味は大きいと言えるでしょう。

         

        一方で「ゲームやスポーツ、学業、読書などで論理性を学び鍛える」という話も有るでしょうが、残念ながら(一部の例外を除けば)ほとんど役に立ちません。何故ならそれらの学びは「論理よりも合理に近いもの」だからで(詳細は別項目となるのでここでは割愛しますが)もし本当にそれが適うというのなら、横綱の暴行やゲーマーの歩きスマホ、高学歴の人々の不正や汚職など、論理の破綻した事件、事故が起きるはずが有りません。(少なくとも倫理観や美意識に迫るものでなければ「論理」とは言えないでしょう。)

        | 青少年の味方の人 | 日本社会 | 08:53 | comments(0) | - |
        もはや「アナログ」しかないという話
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          JAL(日本航空)が振り込め詐欺被害に遭ったとのこと。しかも金額が半端でない3億6千万円で、手口は(よく有る)「振込先が変わった」というもの。そんなの確認すれば判りそうなものと思うだろうが、デジタル上は100%完璧な「なりすまし」が行われていたとのことで「デジタル上のセキュリティ対策」に依存する限り防ぎようが無い(らしい)とのこと。

          当たり前だ。「悪意ある者」が技術的に一歩でもセキュリティを抜きん出れば必ずそうなる。だからニュースで一報が報じられた瞬間に思ったことは「先方の担当者に電話で確認したのか?」ということで、そんな単純な事を怠るようではその担当者も「グル」ではないのかと疑われても仕方がない。

           

          「デジタル依存社会」に警鐘を鳴らすもうひとつの記事は、スプートニク日本版《Bitcoin.com共同創業者、「未来がない」ビットコインを全て売却》というもの。それ自体、ビットコインが爆発的に高騰を続ける中で異例の対応とも言えるが、それより目に付いたのは文中にある《また、これより前、中国のマイナーたちは「ビットコインキャッシュ」について、ハッカー攻撃に対する防御がより優れていると主張していた。》という一文で、これは裏を返せば「デジタル通貨にはハッカー攻撃が必ずついて回り、そこにあるのは単にセキュリティレベルの違いだけ」という話になる。(それこそ前述の「振り込め詐欺被害」の話と何ら変わらない。)

          つまりこと「デジタル」に関しては、如何なる優れた技術と言えども(論理的に)「安全神話」には遠く及ばないということだから、それを承知で「いいとこ取り」だけをすれば良く、間違っても「根幹部分で依存してはいけない」と言いたい。

           

          やはり根幹部分は「アナログ」で対応すべきだと思うし、私自身は可能な限りそうしているつもりだ。

          いつだって「便利」と「危険」は隣り合わせなのだ。(警戒キーワードは「自動化」。人間はこの誘惑に弱い。)

           

          | 青少年の味方の人 | 日本社会 | 09:20 | comments(0) | - |
          「便利」と「危険」は常に表裏一体
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            歴史的に見ても「便利なもの」は全て(使い方を誤れば)「危険極まりないもの」に変貌するという経緯が有ります。

             

            例えば「兵器」一つ取っても、元々は農耕や狩猟のための「便利なツール」として考案されたものを転用したのが始まりでしょうし、その意味では車両、船舶、航空機など近代戦の主役たちも、元々は人々の暮らし向きを向上させるためのアイデアを転用したに過ぎません。(核兵器も然りです。)

            また、現代の戦争に於いてはコンピューターが多用されていますが、これも典型的な「便利ツールの兵器利用」と言えるでしょう。

            このように私たちの暮らしを豊かにするはずの「便利なアイデア、テクノロジー、ツール」などは、それを利用する人の心次第で全て(人類にとって)「危険極まりない存在」と化してしまうことを、私たちは歴史的教訓からも再確認する必要が有ります。

             

            しかし「兵器」であれば、そうした話もまだ解りやすいと言えます。世の中には、兵器よりももっと厄介で極めて危険な「ツール」が在ります。それは使い方を誤れば「極めて大きな破壊力」を持つものです。

            それは「お金」です。

            お金は元々、需要に対する供給(=物々交換)をより円滑に行なうための「便利ツール」として考案されたに違い有りません。それは「価値の経年劣化がない」「いつでもどこでも何とでも交換出来る」といった、物にはない特徴によって実現出来ました。(言い換えれば「物の不便さ」を克服するためのツールであった訳です。)

            ですから人々の暮らしぶりや経済感覚は従来のままであっても何ら問題無く、ただ取り引きの際にお金を介在させることで物々交換の際に生ずる「わずらわしさ」が軽減されるというだけで十分に便利であったはずです。

             

            しかし案の定、事はそれだけでは済みませんでした。それは便利さの裏返しとしての「蓄財」と、手軽さの裏返しとしての「喪失」という現象に象徴されるように、お金が人々の経済感覚を一変させ、そのために人々の暮らしぶりまでがお金に左右されるようになってしまいました。

            こうしてお金は便利なツールである「脇役」であったはずが、いつの間にか人々の生活の中心を占める「主役」にまでのし上がってしまった訳です。

            ですから人々は簡単にお金に吊られ、お金に左右され、お金に振り回され、挙句はお金に支配されてしまうのも当然であって、更に不幸なことには「お金に麻痺させられた」結果、それらがおかしいことにも全く気付けないということのようです。(正確には「お金にされている」ではなく「お金を操る人たちにされている」ですが。)

             

            このように「お金にもてあそばれない」ためにはどうすれば良いでしょうか。

            答えは簡単です。世の中の動向がどうであれ、現在のトレンドが何であれ関係なく、自らがお金を人生や生活の中心に位置付けるような愚を犯さずして、昔ながらの「物々交換の代用品としての便利ツール」とわきまえて置きさえすれば良いのです。(そもそも「消費を煽る」などというのが「資本主義」特有の如何わしさそのものです。当たり前の感覚であれば人間は必要なもの以外は要りません。)

            私たちは、お金は人を死に追いやり、一家を離散させ、国を滅ぼし、世界を荒廃させるとてつもない破壊力を持つ「兵器」として日夜使われている、ということを忘れてはなりません。

            | 青少年の味方の人 | 政治・経済 | 09:11 | comments(0) | - |
            心に有ること、心に無いこと。
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              佐川急便の配達員が、客の荷物や台車を叩きつけて鬱憤晴らしをしていた事が朝のトップニュース扱いというのもどうかと思いますが、これは謂わば「心に有ること」をダイレクトに行なっている姿です。「とんでもないヤツだ!」と思うかも知れませんが、しかしその原因は「もっと早く、もっと便利に」という過剰な配達競争の結果が招いたものです。例えばアマゾンで昼間に注文したものが夕方には届く・・・そんなことを会社が請け負い、それを配達員に求めればこうなることは必定です。

              従来の感覚では「都内で翌日、関西からは2日、九州からなら3日」それで十分ではないでしょうか。もっと無駄を省いてって・・・無駄なんか最初から有りませんよ。継続的なサービスのために必要なマージンが有るに過ぎません。その部分を次々に働く人々から奪い取って行けば最後にはどういう事になるのか。これは何も佐川急便だけの話では無く、コンビニ業界だろうとなんだろうとみな同じで、「過剰サービス、過剰競争」が、そこで働く人々を破壊して行くのです。みんなで声を上げて「ノー!そんなサービスいらない」と言うべきです。

               

              一方でわざわざハワイの真珠湾まで出向いて朝から「心にも無いスピーチ」を行なったのが安倍総理です。その目的は単なる自己保身に過ぎませんから、本人は何の気持ちも入っておりませんし、神妙な振りは演じていても、その言葉には何の重みも説得力も有りません。これで「感動した」などと言う人がいたら、その人自体が嘘を付いているか、さもなくば(安倍総理同様に)「感動」の意味すらもわからないほど中身がスカスカの人としか思えません。

              安倍総理の自己保身と言えば、このところの「トランプ詣で」や「プーチン大統領との会談」も正にそうであって、何れも中身はスカスカでした。つまりそうでもしなければ政権が持たないという事かも知れませんが、それをしたからといって政権は持ちません。単なる血税の無駄遣いです。パフォーマンスをやりたいのなら、本当にせめて「自腹」でやって欲しいものです。

              | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 08:16 | comments(0) | - |
              「JR九州」株式上場のニュースを見て
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                今朝のテレビで「JR九州」が赤字経営から脱却し、晴れて「株式上場」に至ったニュースが流れていました。何気なく聞いていると、何でも「駅ビルなどの不動産業」を柱とする、いわゆる「発想の転換」で経営の立て直しに成功したとの事で、しきりとその部分ばかりが強調され「社長の功績」として言及されていた様に思います。

                しかしその一連の報道の中で、一点だけ引っかかった部分が有りました。それは「それまで駅から少し離れた地域の商店街で買い物をしていた駅の利用客が、駅ビルの完成でより便利になり、そのことが地域全体の発展につながる」という主旨の内容でした。(録画していないので、言葉は正確では有りませんが。)

                 

                赤字の部分が何だか「取ってつけた」様な印象で、どう考えても「地域全体」の中に従来の「地域の商店街」が含まれていない様な気がしたので、ネットで「JR九州、駅ビル、商店街、影響」などのキーワードで検索したところ、案の定「気になる記事」が幾つか有りました。

                記事はこちら(1)→ http://biz-journal.jp/2015/04/post_9734_2.html

                記事はこちら(2)→http://blog.goo.ne.jp/rk_kobayashi/e/651fd9955a91c68f3c6ecb306c37ebd0

                記事はこちら(3)→http://www.dkk-oita.co.jp/pdf/release/20131015.pdf

                 

                駅ビルや巨大ショッピングモールなど大手企業の進出により、従来の商店街が大打撃をこうむり、存亡の危機に陥るというのは今更ながら当たり前(=社会常識の範疇)の事であって、そこは黙ってスルーしろということなのかも知れませんが、これは社会の中で私たちが「自由競争」とは名ばかりの(実は全く勝てる見込みのない)「弱肉強食の出来レース」を仕掛けられているに過ぎず、確実に居場所を失っていくということです。それはあたかも「開発によって自然環境が破壊され、居場所を失っていく野生動物」のようです。

                 

                そのような事を他者に強要する酷薄な自らの振る舞いを心情的に受け入れられる事自体がすでに「病的」と言わざるを得ません。企業経営は「病人」でなければ出来ない?そう誤解されるような振る舞いは慎んだ方が良いと思います。(何故なら他にも良いアイデアはいくらもあるからです。)

                しかし一番の問題は昨日も指摘した通り「世の中こんなもんだ」とばかりに「世の中のねじれや歪みの状況にすっかり慣れてしまった自分自身」にあるのだと思います。取り分けメディアの方々がそうであると、みんなが非常に迷惑しますので、ここ一番死んだ気になってお願いします。(でなかったらどうかメディアに身を置かないでください。)

                | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 11:45 | comments(0) | - |
                お金の働きは2つ有る
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                  お金には「表の働き」と「裏の働き」が有ります。

                  「表の働き」は「物々交換に代わる便利なツール」というお馴染みの働き。これは保存と蓄えが出来る特長を生かしたものです。

                  「裏の働き」は「人間を善人と悪人に二分するための便利なツール」という非常に優れた働き。これは「お金が絡むと人が変わる」と言われるほどに顕著な効果をもたらすものです。

                   

                  健全な社会や人間関係に於いては、「仕事(の質と量)」と「対価(報酬)」は(基本的に)対等な関係が保たれているはずですから、平均的な働き方をすれば必要十分な生活が保証されるはずです。何故なら「分業」という考え方のもと、お互いに「足らざるところ(もの)を補い合う関係」故にお互いに「無くてはならぬ存在」と認識するのが普通だからです。そのような「相互扶助、持ちつ持たれつの関係」に於いては、相互の生活が健全に保たれる事を前提に「仕事と対価の関係と理解」を共有する必要があると思われます。そうであれば「売り手市場、買い手市場」のように、あたかも「強者と弱者の関係」の如くに(バランスを欠いた)不平等な「仕事と対価」の関係性は生じるはずが有りません。

                   

                  このように社会的な不平等は「困っている者の足元を見て更に追い討ちをかける」「蓄え(=余力)の有る側が蓄えの無い側に対し強気で臨む」など、(自由競争の名の下に)時の強者が弱者に対して故意に仕掛ける事で生じさせるものであることがわかります。

                  例えば「売りたい人と買いたい人」の均衡が保たれていれば(両者の関係は対等で)社会は安定している事になりますが、そのバランスが一時的に崩れたからといって一気に「売り惜しみ、買い叩き」に走るのは更なるバランスの悪化に追い討ちをかける事にしかならず、社会全体から見れば「反社会的行為」と言えるでしょう。そうではなく、本来ならば「社会に生じたアンバランスやリスク」は、社会全体で共有(シェア)して吸収することこそが、速やかなバランスの回復を可能にするものと思われます。

                   

                  それからよく「機に乗ずる」などと言われますが、「機」というのが「社会に生じたアンバランスや混乱」という意味であれば、その人は「他人の不幸の上に自分の幸福を築こうとする人」ということになり、行く行くは「バランスの良い社会を快く思えない反社会的な人」という烙印を押される事になります。(誰から?などと、うそぶいていたりすると手遅れになります。)

                   

                  こうして「お金」というものは社会を破壊と混乱に導く「隠れ反社会主義者」のあぶり出しに、日夜貢献しています。(皮肉でも何でも有りません。これは深遠な罠であり真実です。)

                  | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 08:49 | comments(0) | - |
                  例えば「ポケモンGO」という話
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                    「ポケモンGO」のせいで大人も子どもも深夜にところ構わず徘徊するようになり、今更ながら「あんなゲームを作るからだ」という話まで出て来る始末ですが、何も「ポケモンGO」に限った事ではなく、私にはいつもながら「物事の論点はそこではない」様に思えます。

                     

                    例えば、まず「スマホ」が出た時点で「持つか持たないか」という二択が有ります。何故かというと、電車の中で真剣な面持ちでスマホを操作している人が何をやっているのかと思ったら、ゲームかショッピングサイトの閲覧だったりして、それでは携帯電話の必要性とは異質の「単なる付加価値」としか思えないからです。

                     

                    次に「歩きスマホ」がその危険性から社会問題化した以降は、「歩きスマホをするかしないか」の二択が有ります。その時点で「歩きスマホ」を控える様になった人もいれば、依然「歩きスマホ」を継続している人もいます。その意味では「ポケモンGO」は基本的に「スマホ+歩きスマホ」の条件のもとでしか出來ないはずですので、既に「それに熱中出来る人の絞り込み」が事前に為されていた事になると思います。

                     

                    つまり「ポケモンGO」が出たからと言って、誰も彼もがやっている訳では無いということです。ということは、取り分け大人の場合、危険性や生活が不規則となり、多くの時間とエネルギーが浪費されるなどのリスクを承知で「自己責任」のもとで行なっていることになりますので、それはそれでいいでしょう。

                     

                    しかし子どもの場合はそうは行きません。何故なら「責任能力」が備わるまでは、大人が守ってあげなければならないからです。

                    その場合、「ポケモンGOだけはダメ」という話は余り意味を為さないと思います。その理由は先程も述べた様に、これは「スマホ+歩きスマホ」の延長線上に有るものと考えるべきだからです。

                     

                    そもそもスマホ自体が「ただ便利なだけの代物」では有りません。それは車やネットも良く効く薬も同様で、とかく便利な物には相応のリスクが付いて回ります。ただ販売する側の常として、敢えてそこを強調しないだけです。

                    つまり「子どもを様々なリスクから守る」ということは、まず大人がそれらのリスクについて十分に認識して置く必要が有るのは当然のこととして、更には大人が子どもの良い手本として行為、行動を持つ事が求められます。

                    | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 11:39 | comments(0) | - |
                    女性にも普通に「好戦的な人」がいるのでしょうか?
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                      なぜそんなことを言うかというと、例えば女性の警察官や自衛官、あの人たちは「もっぱら武力で敵を制圧する組織」に従事している訳ですが、それを是とする価値観は質的、比率的に男性と同じと見て良いのかどうかが良く判らないからです。(同じ組織内でも男性と女性では任務が異なるとすると、それはそれで女性差別となってしまうでしょうし。)

                      私も子どものころはそうでしたが、男の子は勇ましく戦うヒーロー物を好み、そのアイテムとしての兵器や兵装、武器などに興味を示すのは、私の知る限りは「普通」です。とすれば、その延長線上に「強い日本」を求めて止まない思想的、感覚的な醸成があったとしても不思議では有りません。
                      しかし一方、女の子の成長過程に於いて、そういう「軍事オタク、兵器オタク、銃器マニア」につながる話は聞いた事が有りません。つまり、女の子はそういうものが「好きじゃない」はずで、転じて「戦争も好きじゃない」はずなので、それはそのまま「女性でありながら戦争に理解を示す人は極めて少数派」という認識につながっていきます。

                      そこで今回の夏の「参院選」ですが、少なくとも「野党」から見れば、争点はどうしても「日本を戦争の出来る国にするか否か」即ち「安保法制(戦争法案)を廃案にするかしないか」または「戦争の出来る国にするために憲法を作り直すか」という事になると思います。
                      そこでもし、女性が「女性らしい感性」に従って投票するなら、それは即ち、ただでさえ「好きじゃない戦争」に恋人や夫や子どもや孫たちを差し出す事に対する「反対票」を普通に投じるなら、「自公大敗、野党大勝」は100パーセント確実です。何故なら女性だけで50パーセント近い票が野党に集まるからです。(この票差はたとえ集票マシン=ムサシを投入してもひっくり返せないでしょう。)それと、「票の改ざん」を防ぐためには、如何に便利であろうと「期日前投票」は避け、当日規定の投票所で投票するのがベターのようです。

                      ということで、日頃は「選挙に好き嫌いを持ち込まれてもな〜」というところですが、今回ばかりは純粋に「好き嫌いが功を奏する」結果となるでしょう。


                       
                      | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 16:20 | comments(0) | - |
                      社会はどこへ向かおうとしているのか。(2)
                      0
                        昨日「監視社会、管理社会」の項目で書き忘れたことが有ります。それはネットワークを前提とした「パソコンとスマホ」のことです。
                        今から20年余り前ですと、パソコンは必ずしも「ネットワークに接続されたもの」とは限らなかったので、ソフトウェアもそのように作られていたし、データーのやり取りはフロッピーディスクやMOディスクなどで問題なく行われていたように思います。
                        しかしネットワークで「高速通信」が可能となってくるに連れて、徐々にネットワークの依存度が高まって行き、同時にシステムやソフトウェアの仕様そのものが「ネットワーク接続を前提としたもの」へと変化して行くに従ってインターネット上の各種サービスも充実し、いつの間にか「パソコンと言えばインターネット」が当たり前とされる時代に至ったという事だと思います。

                        ところでインターネットが「利用者にとって便利」ということは、「管理者にとっても便利」である事は言うまでも有りません。それについては最近イギリスのBBCニュースで興味深い記事が紹介されています。
                        ソースはこちら→ “ウィンドウズ10更新、マイクロソフトの「汚いトリック」と批判”
                        このことはNHKや毎日など国内のメディアも報じていますが、BBCほど苛烈でないにしても、マイクロソフト社の「ビジネス上の下心が見え隠れしている」ことには幾分触れている様です。

                        つまり管理者が国であれ民間企業であれ、個々人をターゲットとしてインターネット上に様々な「仕掛け」をめぐらせる事は造作もない事と思われます。例えばウィルスやスパイウェアが侵入出来るという事は、「管理者」であればもっと容易に介入、操作出来るという事です。(それが為されるかどうかは、一重に管理者のモラルの問題に過ぎません。)
                        そのことに「危うさ」を覚えるか否かは、昨日も申した様に、その人にとって「今の社会がどのように見えているか」に掛かっています。

                        因みにこうした意識は年代によっても差があるのかも知れません。例えば私より20年余り若い人では、ネット上の「悪意やリスク」に対する抵抗感や警戒心はさほどでは無いようです。何よりネット環境が「インフラとして不可欠」という気持ちが強く、それを失う事の脅威に比べれば大した事ではないし、そのリスクも「物理的な空き巣や詐欺被害」のリスクと大した違いは無いということらしいです。
                        確かにネット上であろうがなかろうが「悪事は悪事」であって、「せめてネットだけはクリーンでなければ困る」というのも変な話なのかも知れません。
                        ただスマホなどで「自分の現況や位置情報が第三者に送られ続けている」というのは、従来に無い「新しい管理要素」と言うことは出来ると思います。(もちろん、誰かに自分を探して欲しいという時には重宝しますが)
                         
                        | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 12:18 | comments(0) | - |
                        社会はどこへ向かおうとしているのか。
                        0
                          現在、社会は「超管理社会」に向かいつつあると思われます。まずその先駆けは「監視カメラ」で、建前としては「防犯、防災、交通監視、看護、介護、その他の安全管理」という風に、私たちの「安全、安心、便利」に役立てるためとされているはずです。しかし、その全てが(管理者にとっては)一方的な「監視、管理」を容易にする事は事実です。

                          次に「金融(銀行)システム」を通じたお金の流れが有ります。「預金、送金、引き出し、振込、引き落とし」など、お金の流れが全て記録され「データ化」され、一元管理される事が最早当たり前の世の中です。社会では「金融機関」の利用は最早「義務」に近いレベルですが、「自分のものであるはずの預金を希望通りに下ろせない」という現象を見るに付け、「利用者の安全、安心、便利」が建前であって、本音が別のところにある事を疑わざるを得ません。

                          また、現金の不携帯を可能とする「クレジットカード(ICカード)」の普及は、更に「金融機関」への依存度を高め、それらを日常的で無意識、無感覚なものとするでしょう。このように私たちの財産、資産は、徐々に「現物や現金」から遊離したデジタル化された数字に置き換えられ、極めて把握や管理のしやすい状態へと移行されており、「私たちもそれを受け入れている」といっても過言では有りません。但し「電子化」されたそれらは、同時に「極めて盗まれやすいモノ」でもあるようです。

                          先ごろ政府に依って導入された「マイナンバー」は、謂わば「個々人のありとあらゆる情報を一元管理する事を可能とするツール」です。もし行政側が、国民が必要なものやサービスを求める際に「ナンバーの提示を義務化」しさえすれば、ほぼ完全な個人データの収拾が可能となるでしょう。また、その意図が無いというなら、そもそもマイナンバー制度を導入した意味が不明で、不可解です。

                          更に「各種ポイントカード」などの存在も侮れません。本来「現金取引」の実態は、そのままではデジタル化されず、個人情報とはなり得ませんが、ポイントカードを提示した瞬間にデータとして登録されます。

                          このように私たちの住む社会(世界)の方向性は、明らかに「監視社会、管理社会」に向かっています。しかし、「管理されるのは生理的に嫌いだ」という人もいれば、「管理してもらった方が楽で良い」という人もいるので、この問題の是非はそういうことではなく、「誰が」「何のために」それを行なうかという事に尽きると思います。
                          もし今の社会(体制)に対して「総体的に善意に溢れている」と感じるなら、管理を受け入れると良いでしょう。しかし反対に「どうも悪意に満ちているとしか思えない」というのであれば、今の流れをそのまま受け入れるのは「危険」です。何故なら「個人データのデジタル化」によって「悪意によるピンポイントでの個人攻撃」すら可能となってしまうからです。
                          | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 10:05 | comments(0) | - |
                          なりふり構わない人々
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                            「形振り(なりふり)構わない」という表現には、二通りの意味が有ると思います。これは言い換えると「傍目(はため)を気にしない」ということですが、まず、「正しいと信じる自らの信条を貫く行為、行動」の際に、人は「他人からどう思われても構わない」という心境になりますが、この場合、「他人の目」の存在は充分に意識出来ていますが、敢えてそれに左右されないという「意思の力」を働かせるという事です。
                            ところが、もう一つの意味としての「なりふり構わない」場合、「他人の目(=他人の評価)に対する意識自体が希薄になる」という特徴が挙げられます。これは単純に「社会性の欠如、衰退」がもたらしたものと考えられます。しかし良く見ると、そのような人でさえ「社会構造の中の、自分にとって都合の良い部分はしっかり残している」ことが判ります。

                            例えば、「社会に関心が無く、他人の目も気にしない」人であっても、「公共の安全、安心の仕組み」や「便利な公共サービス」の中で、それを当たり前のものとして受け入れ、利用しています。これは無意識に社会の「いいとこ取り」をしているということであって、「傍目(はため)」というものは「社会の悪いところだから受け入れられない」と、暗に言っているのと同じです。

                            「歩きスマホ」などがその典型で、「インフラとしてのインターネットサービス」と「公道や公共の場に於ける歩行の安全性や治安の確保」を基に、(他人を介さない)自分と社会との(選択的な)関わりを実現させているということだと思います。それらの特徴としては、「社会」とは「人」ではなく「サービス」であるということです。従って「なりふり」が問題となるのも、「人」に対してではなく、(不払いや規約違反など)「サービス」に対するものに限定されることになります。
                            ですから、安全上前方には多少の意識を向けるものの、左右や後方の他人については「ほぼいないも同然」で良い訳です。

                            しかし、みんなが「個人と社会サービス」のみの関係性に終始するとしても、それが問題なく許されるのは「一人ひとりに充分なスペースが提供される場合のみ」で、混みあったスペースや限定されたサービス環境では不満が発生し、予期しないトラブルに見舞われます。こうした場合、「社会とは人である」との基本を知らず、そのための訓練が為されていない人々に、正しい対処が出来ようはずも有りません。事実世の中は、近年余りにも稚拙で短絡的、自己中心的にして愚か過ぎる不幸な結末で溢れています。それは社会が「なりふり構わない人々」で溢れ返ってしまった結果です。そしてそれは、人々が「大々的に宣伝される商業主義的トレンド」を勧められるままに選択して来た結果でもあるということです。はっきり言ってこれ以上は「危険」です。

                            例えば「民主主義」では、人々が自分たちで物事を円滑に進めていく能力が求められています。その意味では「代議制」も、「隣近所の話し合い」も同じ事で、人間同士が話し合い、理解し合える一定のレベルが必要です。もしそれが(現在のように)失われ、レベルに満たないというのであれば、混乱により社会が維持できず「民主主義」は成り立ちません。それこそ専制君主による独裁政治を受け入れざるを得なくなります。(少なくとも混乱は強制的に排除され、治安は維持されるでしょう。)
                            これは冗談ではなく、今現在その瀬戸際まで来ています。(だから強圧的な政権を平気で受け入れて疑問に思わないのです。)
                            | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 10:50 | comments(0) | - |
                            「鉄腕アトム」と「アルファ碁」の話
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                              人工知能(AI)の囲碁ソフト「アルファ碁(AlphaGo)」が、世界最高峰といわれるイ・セドル九段に4勝1敗で勝ち越したニュースが世界を震撼させました。それは人工知能(=ロボット)が「人間に近づき、一部に於いて人間を追い抜いた」事が証明されたからです。
                              よく人間とロボットの差別化として「ロボットは感情を持てない」などの話で納得しようとする向きもありますが、「だから安心」という話には全くならないと思います。何故ならロボット開発の主眼は(昔から)「産業構造に組み入れる事」であって、友だち関係を作る事では無いからです。
                              そうした意味の注目すべき以下の記事を見つけました。
                              「人工知能の発展は格差拡大に繋がりかねない」というものです。クリックして一読される事をお勧めします。

                              とかく「表(おもて)のニュース」では、人工知能やロボット技術の発展を「明るい話題」として取り上げます。グーグルの「全自動運転車(=ロボットカー)」の話題など、その最たるものです。しかし最も重要な事は、「誰が何のためにそれを欲しているのか」という事です。「誰」とはもちろん、そうした技術を開発し、社会に普及させる計画を推し進めている「限られた人々」の事で、少なくとも「私たち一般庶民」の事では有りません。つまり「ロボットは作り手の意図を反映した仕様となる」という極めて当たり前の事が行われる事となります。

                              漫画の神様と言われた「故、手塚治虫氏」は、今から60年前の1956年に、既にこの事を作品の中で警告しています。それは「鉄腕アトム・第18話 アトラス」に於いてです。私は子どもの頃この作品を読んで、シリーズの他の作品のどれよりも衝撃を受け、それ以来忘れたことは有りません。ですからロボットに組み込むための「悪の因子」とされる「オメガ因子」の事もしっかり覚えていました。
                              つまり、この世に悪人が存在する限り、「オメガ因子」を装着したロボットが必ず登場する事になるのは、それこそ「火を見るよりも明らか」と言わざるを得ません。(ロボット技術はただでさえ戦争目的で開発されている経緯が有ります。)

                              例えば人工知能(=ロボット)に「自己保存プログラム」を施せばどうなるでしょうか、それは別に「感情」云々の話では無く、人間や動物の「自己防衛本能」を真似るだけで簡単に実現出来るはずです。そして一旦そのプログラムが走り出したら最後、人間がロボットのスイッチを切ろうとしたり、破壊しようとすると「手痛い反撃」を受ける事となるに違い有りません。もしそのロボットが「自己メンテナンス可能なタイプ」であれば、「人間は不要」と判断するかも知れません。これはまさに映画「ターミネーター」の世界です。

                              この事は(如何に技術的に可能であろうとも)「たった一発で地球を四散させてしまうほどの威力のある兵器を作ってはいけない」のと同じ理由で、常に「便利さの裏には相応の危険が存在する」事をわきまえ、無制限に人工知能を発展させ、形にすれば良いというものでは無いという事だけは、万人が知っておく必要があると思います。何故なら「人間は過ちを犯すもの」だからです。
                              | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 10:23 | comments(0) | - |
                              「仕組み」を悪用してはいけません。
                              0
                                人が使う道具や機械には必ず「仕組み」があります。例えばテコの仕組みや回転する仕組み、伝達する仕組みなど、人間に便利さをもたらすための仕組みです。
                                それと同じように「社会」にも「仕組み」があります。それは社会がより便利で快適なものであると同時に、安全で安心出来るものであるために、長い時間をかけて考え出されてきたものです。
                                例えば「民主主義」も社会の仕組みのひとつで、その中には更にそれを実現させるための「議会制」や「選挙制」といった仕組みがあるでしょう。また「国家を維持、運営する方法」としての「司法、立法、行政の三権分立」や「政治と宗教を一体化しない」ための「政教分離」などの仕組みは、過去の経験などから「社会の安全性を高める」ための仕組みと考えられます。
                                要するに「仕組み」というものは、本来私たちの「快適と安心」のために提供されているものとして間違い有りません。

                                しかし、私たちはそのような仕組みの「本来の役割」の話だけを聞いて納得している訳には行かないのです。何故なら、ほとんどあらゆる仕組みは「悪用」することが可能だからです。
                                例えば、人間は「火を起こし、石器(=刃物)を使うようになって、著しい進化を遂げた」と言われて来たように、マッチやライター、包丁や鋏(はさみ)は、未だに生活に欠かせない物ですが、常に危険と隣り合わせの側面があることも事実です。どれも使い方次第では人を容易に殺傷する事が出来るからです。しかも皮肉な事に、優秀な道具であればあるほどその危険性も高まる傾向にあります。つまり私たちは、それを承知で「正しい教育による正しい理解」のもとに道具を使っているのです。

                                ところで「民主主義」には基本的に「多数決の原理」に基づいて「物事を決定する」仕組みが取り入れられていますが、そこには「多数決の横暴」という、包丁に例えれば「人を殺傷できる」という側面があります。
                                しかし「民主主義」は私たちの「快適、安心」の根幹で有りながら、そのための「正しい教育」を何時受けて、そのための「正しい理解」が何時なされたのか記憶に有りません。そのために「多数決が人を殺傷するために使われる」という感覚を持つことが出来ず、「多数決だからしょうがない」といったように「多数決の暴力」を見過ごしてしまう傾向にあるのです。
                                ですから今後しばらくは「多数決だから大丈夫」というような考え方は「身を滅ぼす危険思想」とでも思って、倉庫に鍵を掛けてしまっておいた方が良いと思います。

                                私が知る限り、「民主主義の名の下に多数決を暴力として悪用」する事は簡単です。
                                まず、わざと貧富の格差を作ります。なるべくゆっくり、じわじわと目立たないように、確実に作ります。
                                それが出来たら今度は適当な時期に、「これではいけない、何とかしよう」と声を上げます。
                                多くの人は「この人は自分たちの味方だ」と思うことでしょう。
                                思い方の足りない人には更に金銭的な援助を申し出ます。生活に困窮しているので、僅かな金額で心が動くでしょう。
                                そこで「選挙」をすれば、この人は確実に支持され「当選」するでしょう。

                                この中には倫理的な誤りや不正、法律違反が多々ありますが、地味に名目上それとわからないようにする方法はいくらでも有りますので、かなり確実な方法だと思います。また、みんなが豊かで不満がなければ、手ごろな金額で「買収」すること自体が難しいので、先に「みんなをしっかり困らせておく」ことがポイントとなるでしょう。

                                みなさんは、決してこんな底意地の悪い人になってはいけません。ただ、どうして正しいはずの「民主主義」や「多数決」が悪い結果をもたらすのかという「可能性」を知ることが、それを防ぐ手立てにつながると思います。
                                また、本当の意味では「独裁的」であろうが「民主的」であろうが、それ自体の「善悪」や「優劣」は有りません。何故なら「常に民衆の声を良く聞いて政治に生かそう」と考える独裁者であれば、何ら問題は無く、反対に「常に民衆を騙(だま)し、民意を操(あやつ)って自分たちの思い通りの政治をしよう」と企(たくら)む民主政権だってあるのです。

                                つまり物事の結果は「仕組み」によって決まるのではなく、「心」によって決まるのです。
                                | 青少年の味方の人 | 大人になるための大事なこと | 10:42 | comments(0) | - |
                                「カッコいい」とはどういうこと? その2
                                0

                                  「カッコいい」とは「自分が大きな価値を感じている部分に対して高い能力を示すこと」だと思います。それが他人や物であれば「憧(あこが)れ」を感じるでしょうし、自分がそうであれば「自己満足」の要因となり得るでしょう。

                                  ここでは一般的に「らしさ」というのがひとつの目安になりそうです。例えば漠然と「男らしい」「女らしい」という場合、それぞれに男性、または女性として必要とされるもの(=素質、能力)を充分満たしているという意味で用いられますが、それは言い換えれば男としてカッコいい、女としてカッコいいということだと思います。更に「らしさ」を突き抜けて一段と高い評価を受けた場合の「サイコー」も最高にカッコいいという意味で、「素質、能力がズバ抜けている」ことを示しています。

                                  しかし、そうなると生まれつき素質に恵まれた人たちや能力が高めの人たちだけが「カッコよく」なれて、あとの人たちはそれを羨(うらや)ましがりながら「カッコわるく」生きていくしかないということになります。本当にそういうものなのでしょうか?

                                   

                                  実は一口に「カッコいい」と言っても、何に対してそう思うかは人によって全然違いますし、違っていて良いのだということです。

                                  例えばメカ好きの人から見れば究極のメカとも言える最新鋭のジェット戦闘機も戦車も原子力空母も「カッコいい」と感じたりしますが、メカに全く興味が無く、戦争はイヤだという人にとっては「どこがカッコいいのかさっぱりわからない」ということです。

                                  また、一般的にスポーツに関心を持つのは良いこととされていても、やはり運動が苦手でスポーツに余り興味のない人にとっては、たとえオリンピック選手であっても(仮にすごい事とは思えても)「カッコいい」とは思えず、憧れの対象とはなりません。

                                  このように「カッコよさ」は一人ひとりの持つ価値観ごとに違っていて当然で、逆に世の中には色々な価値観がないと困るのです。何故ならみんながケーキ屋さん(=パティシエ)になりたがったら他の仕事をしてくれる人がいなくなってしまうでしょう。

                                  つまり人間一人ひとり目指すものが違うということは、すでに一人ひとりの価値観が違っていて、それによって多様で便利な社会が作られて行くわけですから、その部分を無理に共有しようと思う必要は全く有りません。(そんなことをするから他人と比べて落ち込む人が出てきたりするのです。)

                                   

                                  さて、ところで当初の目的である「他人に認めてもらいたいのでカッコよくなりたい」ということですが、そもそも価値観が人それぞれに違っていて良いということになれば、結局「カッコいいの悪いの」とは、他人と比べたり競争したりしてどうこうするものではないということです。仮に「カッコよさ」を他人と競い合って満足したり落ち込んだりしていることがあるとすれば、それは「カッコよくなるため」ではなくて、単純に「勝負で勝ちたい」だけのことであって「目的」が違っています。あくまで「カッコいい」とは個性としての魅力を発揮することであって、他人と同じ土俵で勝負することではありません。

                                  前にも言った通り、社会(=人)は様々な個性を必要としています。それは言うなれば若者には若者の良さ、年寄りには年寄りの良さ、スポーツマンの良さ、勉強家の良さ、活発な良さ、落ち着いた良さ、大ざっぱな良さ、細かな良さ・・・とにかくそれぞれに「カッコよさ」があります。肝心なことは、今の自分に一番合った良さを見つけて思う存分発揮することではないでしょうか。(くれぐれも流行に心を奪われないように。)

                                  | 青少年の味方の人 | 大人になるための大事なこと | 11:45 | comments(0) | - |
                                  社会の「力学的考察」について
                                  0
                                    個々人の力の集積でもある社会に見られる現象を「力学的」に説明し得ると考えるのは、ある意味当然とも言え、現に「社会力学」「集団力学」として体系化されている訳です。
                                    こちらに比較的解りやすい記述が在りました。→ http://www.geocities.jp/kyongsea/sub330.htm

                                    しかし、現状の危機的状況や緊急的課題を前にして(それが社会力学的に説明出来たからと言って)どうなるものでも有りません。何故なら基本となる個々人の思考や行動の根拠が多分に自己防衛に基づいた利害得失に関わる場合が殆どで、その部分が変わらない限り本質的な改善は望めないからです。
                                    例えば「目先の欲」や「個人的感情」に捉われた行動というものは概して視野が狭く、計らずも先行き大きな損失を招く事が少なからず有りますが、そのような構成要素を以って「行動力学的」に良い答えを導き出そうと言っても困難が予想されます。何故ならそこには自分が集団の中に紛れた(目立たない)存在であることを理由に、「責任の回避や力の出し惜しみすらも社会的利得であり恩恵」と感じる意識が働くからです。(しかしそのような些細な損得勘定をエサとして他人に利用されて騙され損をする事は良く有ります。)

                                    社会(=集団)は本来、「それぞれに自立した主体性を持つ個々人」が共通の目的のもと、より高い目標の達成を成し得るための「合力の場」として形成されるべきものですから、そうであれば「集団だから楽が出来る」という発想は在り得ず、「集団だから大きな成果が得られる」というイメージこそが健全と言えるのではないでしょうか。(当然個々人は努力を惜しみません。)
                                    即ち前述したように、多くの人が社会を「利己的な目的のための便利ツール」という、謂わば「反社会的な発想」を以って捉えている限り、(当り前の事ですが)どう力学的にアプローチして見ても社会は悪い方向にしか向かいません。いや、強いて言うならそこには「健全な発想を持つ人々と不健全な発想を持つ人々との目に見えない綱引き」が厳然として存在しています。(馬鹿げた話かも知れませんが)それが現在唯一無二の力学的選択肢であり、社会的機能を崩壊させないための不可欠なものとなっています。(経過として社会はジリ貧に悪化していますが・・・)

                                    このように「社会を良くしよう」と思う時に、「集団」として捉えて見てもあまり意味が有りません。やはり社会を構成する一人ひとりの資質に対する地道な考察と働きかけ以外にないものと私は考えています。「そんなことでは間に合わない」と思う前に、良いと思う事を「社会常識」とする努力を怠らないことです。例えば不正に対する「内部告発」が社会常識となれば、世の中は思いの他早く良くなるかも知れません。(その動きは既に始まっています。)
                                    | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 09:10 | comments(0) | - |
                                    今日はホームページの更新をしました。
                                    0
                                      基本的にブログを移植するだけなのですが、しばらく溜めていたので結構手間と時間が掛かりました。ブログではカテゴリー分けが大まかなので、目当ての記事を探すのがたいへんだと思いますが、そういう場合はホームページの記事別タイトル一覧が一望出来て便利です。是非ご活用下さい。

                                      ホームページはこちら→ http://kakikomi-dera.main.jp/
                                      | 青少年の味方の人 | ご連絡・お願いなど | 18:12 | comments(0) | - |
                                      不愉快なPTAなら無くて良い。
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                                        必要に応じて有志がその都度「特定の活動に対する実行委員会」を立ち上げ、参加者を募れば良いだけのこと・・・というのは極論ですが、有り得ない話とも言えません。ただその際「PTAなる母体」が既に在ればより便利ということでしょう。ともかく問題は企画や活動自体が「実情に添うものであるかか否か」ということだと思います。

                                        実は昨日もこの時期恒例の「PTAの役員・委員選出」の現場に行ってきました。最初の方は順調でしたが、大詰めになると相変わらずの「重苦しい雰囲気」が漂い始めます。その際、立会いの現行会長と役員の方から「皆さんの子どもが本当に学校にお世話になっていることを思えば、ここは学校のために一肌脱ごう、手伝いたいという気持ちに自然となると思います。」という主旨の話や「今までの伝統を何としても守っていくためにはこれだけの人数が絶対に必要です!そうでないと縮小しなければならなくなってしまいます。」などの論調が示されましたが、私の様な人間はそこで「ん?」と思ってしまいます。

                                        そもそも「義務教育」とは、国と保護者が「子どもという人格」に対して平等に教育を受けることの出来る環境を提供する「義務」を負っているという意味だとすると、その上「学校にお世話になっているから」という理由で「新たな義務」を負わせられるとすれば、これは明らかな負担になると思います。(子どもは教育を受ける権利を有し、国と親がそれを保障する。)それを思えば学校教育を国が行い、家庭教育を親が行うという基本的な並列関係であっても問題は無く、あたかも教育の全ては学校に集約される様な考え方の方が逆にバランスを欠くかも知れません。(PTAの後援会的性格はそういうことです。)
                                        また、「伝統云々」となると、基本的に実情を無視することになり、無理矢理感や強引なイメージ、強制力を避ける事は出来ません。どうしてもと言うなら、事前に「伝統保持に対する合意」また、それ以前に当該PTAの主旨を理解した上での「任意加入」が条件でなければ「活動を義務として強要」することは出来ません。(つまり、実情を踏まえた上で伝統を維持出来なければ縮小または撤廃するというのが正解になります。)

                                        以下にPTAのあるべき姿をイメージする上で参考となるリンク先を貼っておきますので、関心のある方はどうぞ。国としてもPTAの「強制加入的イメージ」や「後援会的性格」は好ましくないことを明言していることが理解出来ると思います。また同時にPTAは第一義的には「学び(=学習)の場」であることも明言しています。但し「学び(=ボランティア活動)」という拡大解釈が横行している現状は否めませんが。

                                        素晴らしい、PTAハンドブック・規約などのページ
                                        http://www.think-pta.com/PTA_kiyaku/kiyaku_nice.html
                                        | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 11:46 | comments(0) | - |
                                        当たり前の話
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                                          「来る者は喜び迎え、去る者は追わずして幸あれかしと願うべし。」とは、人として至極当たり前の話です。何故なら、そのようにされて文句を言う人はいないからです。誰も文句を言わなければ世の中は平和ですから、それが一番良い事に違い有りません。
                                          ところが現実の世界はそのようになってはいないと思います。それはいったい何故でしょう?何故、人は「一番良い」と思える生き方をしようとしないのでしょうか?

                                          それは「みんなで良くなろう」という気持ちが足りないからだと思います。
                                          つまり「己を中心」として物事を考えれば、「来る人は誰でも迎え入れる」という訳には行きません。当然、利害損得や相性の問題で「来て欲しい人」と「来て欲しくない人」に別れますし、同じ理由で「去る人は追わない」という訳にもいかなくなります。ですからこの事は逆に言えば、自らの「自己中心度」を知る良い手掛かりになるとも言えます。

                                          ここでのもうひとつのポイントは「来る者は喜び迎え」となっていることです。
                                          つまり「いやいや」迎えても迎えた事にはならず、相手を拒んでいる事に変わりはないという事ですから、そこから導き出される結果は「形で拒んだ時」と大差は有りません。それは相手が一方的に自分の元から去ろうとしている場合も同じで、未練や執着が有るようでは「相手の幸せ」を願う事は出来ません。

                                          このように「自己執着」から生ずる「自己中心的」な生き方では、人を分け隔てなく受け入れることなど到底出来ず、その時点で他人の人格を尊重する気持ちを失い、他人とはいわば「自分のための便利ツール」でしかなくなってしまいます。そしてそのような環境に身を置いている自分自身もまた、他人から見れば「他人のための便利ツール」か、もしくは「無用の存在」でしかないという事は理解する必要が有ります。更にこのような関係性を受け入れてしまう事で、人は限りなく「冷酷」になって行きます。その結果がどうなるかは想像に難く有りません。

                                          「みんなで良くなろう」という、大人から見ると如何にも子どもじみた話の中身には、そのような事態を何とか回避したい、改善したいという私の強い思いがあります。

                                           
                                          | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 09:39 | comments(0) | - |
                                          「差別意識」は自らを正当化する。
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                                            元々正しい人間は、敢えて「自らを正当化」する必要は有りません。故に、その必要が有る人は既に間違っているか、これから間違いを犯そうとしている人に違い有りません。そして「差別意識」というものが、そういった考え方や、やり方の間違いを正当化するための「超便利ツール」として過去から現在に至るまで重宝されてきたという事実が有ります。

                                             

                                            「人種差別」が、膨大な量に及ぶ他人の権利や財産を合法的?に略奪してきたことは、前回述べた通りですが、現在では「人権擁護」という基本的考え方が一般化してきたために、昔のように「露骨な差別」がやり難くなっていることは事実です。

                                            しかし「差別意識」そのものは厳然と存在し、「格差社会」として相変わらず合法的?に保たれています。

                                            例えば「民族(人種)格差」だけではなく「男女格差」「学歴格差」「職業格差」「地域格差」「企業格差」「経済格差」などの背景には、「差があって当然」という明白な「差別意識」が在り、何れも「富の分散」を妨げ、「富の一極集中」を助長する結果となっています。

                                            これらは一見「能力格差(=能力相応の処遇)」のようにも思われますが、明らかに間口のところでフィルターに掛けられていて、初めから「機会の均等性」が損なわれた「差別的扱い」が為されていることは明白です。

                                             

                                            「差があって当然」という正当性を主張するなら、まず「機会の均等性」が保障されてなければならないと思います。その上で互いに能力を発揮し合い、仕事効率や生産性に差異が見られれば「能力差」として評価されるのも良いでしょう。しかし、その機会を不当な理由で妨げられることがあってはならないと思います。それでは一部の人間が狡猾さを以って他人を利用し、社会の恩恵を独占することになります。

                                            何故それが正しくないのでしょう?解りますよね。「みんなの社会」だからです。もうひとつ言うなら、「生きとし生けるものみんなの地球」だからです。

                                             

                                            ※差別意識も格差社会も同じもの。共に最もあくどい経済活動を行うためのツールです。(それ以外の使い道は有りません)

                                             

                                            | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 11:54 | comments(0) | - |
                                            「頭が良い」は褒(ほ)め言葉にならない。
                                            0

                                              それは単に「良く切れるはさみを持っていますね。」と言われているのと同じコトで、それに対して何と答えたらいいのでしょう。「はい、お母さんに買ってもらいました!」「はい、良く切れて気持ちいいです。」「はい、切れ過ぎてなんかコワイです。」・・・あと、何か言えることがありましょうか?

                                              これは「頭の良し悪し」に限らず、身体能力の優劣、手先の器用不器用、デザインや味覚のセンスなど、すべてに共通したことで、それらはみな人間が生きて行く上での「道具(=ツール)」とみなして良いでしょう。(つまりあれば便利なもの。)だとすれば、一番大切なことは道具の良し悪しではなく、「何のために使うのか」「どのように使うのか」という点に尽きると思います。その事がきちんと分かっていない状態を昔から「宝の持ち腐れ」と言って、せっかくあるものが「何の役にも立たない」という意味になります。

                                               

                                              更にもっと困った事もあります。それは「使いみち(=用途)」を間違えることです。

                                              例えば、私たちは幼いうちから「はさみやカッターは危ないモノ」としっかり教え込まれてきたはずです。このように便利な道具というものの多くは、便利さと同時に危うさも持っています。はさみ、ナイフ、包丁、錐(きり)は元より、大きなものではオートバイや自動車など、どれも無くてはならない反面、使い方を誤ると非常に危険であることに変わりは有りません。

                                              つまり道具、即ち人間の才能や能力というものは、「正しい使いみちに対して正しい使い方」をしない限り、持つ事の意味をなさないか、あるいは「持たない方が良かった」という結果すら有り得るのです。

                                               

                                              にも関わらず、近年大人たちの多くが良かれと思って「子どもに良い道具を持たせること」のみに心血を注ぎ込み、むしろそのため、正しい用途、用法を理解するに必要な「心の育成」がなおざりにされてきた現実があるように思います。何故そう思うかというと、そうとしか考えられない痛ましい報道が後を絶たないからです。(良い道具を持て余す事によって起きる不幸ということです。)

                                               

                                              皆さん、才能や能力を生かすのは「心の働き」です。いくら「良い頭」を持っていても、心が貧しければその半分も生かせないでしょうし、逆に心が豊かでさえあれば、持てる能力を100%活用することだって決して難しいことでは有りません。どちらの結果がより好ましいかは言うまでも有りません。

                                              | 青少年の味方の人 | 大人になるための大事なこと | 10:21 | comments(0) | - |
                                              「依存度」を下げれば楽になる
                                              0
                                                「依存」とは「他のものに頼って成立・存在すること」だそうです。思えば「人間の成長」とは、子どもから大人に向かうに連れ「依存度を減らして行く作業」と言えなくも有りません。しかし「老化」に従って今度は逆に(精神面はともかくも)杖、眼鏡などの物に依存する度合いが高くなっていきます。従って「総合的に最も依存度の低い状態」をその人間の「ピーク」と考える事が出来ます。

                                                ところで大人になっても「依存度」の高い状態があったとすれば、それはそのまま「生き難(にく)さ」に繋がって行く事が多いように思います。自らその事に対する自覚や警戒心を持てるならまだしも、大抵は「自分にとって必須のもの」という価値観と共に気が付かない事が多いようです。
                                                特に「便利なもの」「お気に入りのもの」「ストレス解消や暇つぶしに重宝するもの」などに「依存」するというのはよくある事ですが、「欠かせない」という意識を持つようであれば、逆に「依存度を下げる」必要があると思います。何故ならそれが失われた時のダメージは大きなものとなり、そのために精神的バランスを崩し、最悪の場合「考え方や行いが常軌を逸する」可能性があるからです。

                                                本来、人間が自立心を持って成長してくためには、「明確な目的意識(イメージ)と責任感」が必要です。そしてその事自体が物事を計る尺度となって、物事の「価値」や「優先度」を正しく認識出来るようであれば、不必要に「依存度」が高くなるような事は起こり得ません。
                                                つまり「不適切な依存状態」を解決するためには、正しくは「目的や責任」といった「生きる上での基本」から見直す必要があるという事です。
                                                単に良くないモノを「良くない」と知っただけでは、ただ「矛先が変わる」だけで、「依存状態」そのものは永遠に変わらないのではないかと懸念しています。

                                                因みに私は日頃、テレビ番組を「一番イイところ」でブチッと消したりしています。何故なら自分にとって「それよりも大切な事」は山ほどあるからです。(些細なことですが・・・)
                                                | 青少年の味方の人 | 大人になるための大事なこと | 09:50 | comments(0) | - |
                                                「便利さ」の向こうにあるもの
                                                0
                                                  世の中、ずいぶん便利になったものだと思います。まず交通手段の進歩は人々の行動範囲を拡げ、時間が大いに短縮されました。また機器のコンピューター化によって、機械が人間の代わりに色々と面倒な事をやってくれます。中でもインターネットの普及は、居ながらにして世界中と関わりが持てると言う魔法を実現してくれるようになりました。確かにこれだけ聞くと「便利」とは「良い事尽くめ」のように思われます。

                                                  しかし物事には必ず二面性が有り、その意味に於いては「便利さ」も例外では有りません。例えば「手軽に旅行が出来る」からといって「不用意で良い」と言う意味では有りませんし、「機械が何でもやってくれる」からといって「怠惰になって良い」と言う意味にはなりません。また、インターネットは幾ら相手の姿や形が見えないからといっても、決して「バーチャルなもの」ではなく、向こうには「生身の人間」がいる訳ですので当然「礼を尽くすべき」と考えます。(電話だってそうですが。)

                                                  つまり「便利」である事で、人としての物の見方や考え方、振る舞いが「安易になって良い」と言う事では決して無く、むしろ生活の形態が広範囲、高密度となる分、一層のパワーアップ、ステップアップが求められているかも知れません。これは「便利さ」を提供する側と甘受する側の「共通の課題」と言って良いでしょう。
                                                  | 青少年の味方の人 | 大人になるための大事なこと | 16:08 | comments(0) | - |
                                                  良い判断・悪い判断
                                                  0
                                                    人は絶えず「判断」を迫られています。例えば晩御飯の仕度(したく)のためスーパーへ買い物に行っても「今日は何にしようか?」の如くです。要は「宣戦布告の決断」から「昼寝をするとかしないとか」まで、とにかくあらゆる事が「判断」の対象であり、「判断の良し悪し」が先々の明暗を分ける事も実際少なくありません。それはつまり「判断は人の幸福に大いに関わっている」ということを意味します。
                                                    しかし、そもそも人は「何を基準に」物事を判断しているのでしょうか?また「より良い判断を行うため」には何が必要となるのでしょうか?

                                                    動植物の場合、自身が「環境の一部」であると同時に「環境を保全する役割」を担って存在していますので、自ずと本能に従って行動する事に重要な意味が有ります。即ち「動植物の判断基準は本能」となります。
                                                    翻って人間の場合、そう簡単には行きません。何故なら「環境の一部」という認識に乏しく、環境を保全すると言うより「環境を利用する」事を旨としているからです。それに「個々の人間」と「社会全体」とでは微妙に「利益の相反する部分」も有り、常に統一された判断基準で事足りる訳でも有りません。しかしどちらも概ね「利益の追求」が主眼である事に変わりはないでしょう。

                                                    ところで「利益」とは、元々「生きるために有益な物」という意味ですから、例えば食物で換算すると、「一日の基礎代謝量+活動量分」を下限とする事になります。
                                                    では上限はあるのか?という話ですが、昔は「食物の保存期間=上限」でしたが、食品保存の技術の進歩と相まって現在は「環境破壊一歩手前=上限」と自動的になります。その理由は「環境を破壊してしまったら生産出来なくなる」という当たり前の話です。そして現実に人間、取り分け社会として組織立っている場合は特に「一歩手前」まで突進してしまう習性があるようです。
                                                    それは出来るだけ「ストック(=たくわえ)」を確保したいという事なのでしょうが、(それは純粋に必要量の確保と言うよりも)ここでは基本的に競争原理が働く仕組みになっていて、「他に取られる前に取ってしまおう」という気持ちに駆り立てられるようになります。
                                                    つまりそれらは本当の意味での必要量を考慮した生産、確保とは言えず、単に競争原理に依ってピークに達してしまっているだけなのかも知れません。もしそうでなければ「殊更に消費を煽(あお)る」必要が生じたりしないはずです。

                                                    一方で「消費を煽る」ためには社会に属する個々人が「食欲・物欲」が旺盛でなければならず、また「より便利・快適」を追求したくなるほど「わがまま且つ怠惰」でなければならないという命題が有ります。また「遊び事」に熱中するためには、それなりヒマでなくてはなりません。
                                                    私たちが社会からそれを求められているのだとすると、釈然としないものが有ります。何故なら「自然界」に於いて、前述したような「消費社会に求められるような傾向」は皆無だからです。もしこのような社会を正しいとするなら、私たちは「自然界と完全に遊離」してしまい、「自然を利用すること」は出来ても「自然から学ぶべきもの」が一切無くなってしまいます。
                                                    故に今一度、そのような「判断の是非」について問い直してみたいと思う次第であります。
                                                     
                                                    因みに、私は判断の基準として「自然に対する感謝と理解」が絶対に必要だと思っています。対人関係の場合は「自然→人」と置き換えれば済みますので。
                                                    | 青少年の味方の人 | 大人になるための大事なこと | 09:34 | comments(0) | - |
                                                    「学識」「博識」の話
                                                    0
                                                      「学識」とは、学問的知識・見識の事、「博識」とは、広範囲の知識を有する事。
                                                      これらの言葉は、通常「肯定的」な意味で使われることが殆どです。何故なら「優れている」という意味合いになるからです。
                                                      しかし、もし仮に「否定的」な意味を持つことがあるとすれば、それはどんな場合でしょうか?
                                                      おそらく「学識が邪魔をして・・」「博識が仇(あだ)となって・・」ということだと思います。

                                                      学識や博識を身に修めるためには、長い年月と並々ならぬ努力が必要ですし、それを目標とする相応の「価値観」が求められます。
                                                      取り分け「学識」の場合、それが自らの人生の基軸となっている事も珍しく無く、そうなると最早「プライド=学識」と言っても過言ではないでしょう。
                                                      そのような場合、「自らの学識(=見解)」を否定されるという事は、「自らの存在」そのものを否定された様に感じてしまうかも知れません。

                                                      ところで「学識や博識」は人間にとっての「ツール」であります。(ツールに過ぎませんなどと書くとお叱りを頂きそうですので)
                                                      ツールということは、「道具箱の中身の1つ」という意味で、箱の中には他のツールも入っているということです。
                                                      例えば、「実地検分ツール」「標本採集ツール」「体験学習ツール」「意見収拾集約ツール」「インスピレーション啓発ツール」等々・・・。これらのツールの殆どは、それなりの時間と労力を必要としますが、立派なツールである事に変わりないと思います。
                                                      一方「学識や博識」の殆どは「机の上」で習得し、活用する事が可能となっています。
                                                      仮に、実験結果や統計データに基づいた学説であっても、自ら行うまでもなく、他者のそれを書物から取り入れることで必要十分とされているからです。

                                                      最後になりますが「学問」というのは、直近も含めた「過去の発見と発案」を集約し、体系化した大変重宝なものです。
                                                      その唯一の欠陥は、「現在と将来の発見、発案」が含まれていないということでしょう。
                                                      「発見」には当然ながら、従来の「学識=固定観念」を裏付けるものもあれば、覆(くつがえ)すものもあるでしょうから、殊更(ことさら)執着すべきものとも思えず、便利なツールとして「他のツールと併用」して行くのが、より合理的のように思えます。(誰だってトンカチだけで家を建てようとは思わないはず)
                                                      | 青少年の味方の人 | 大人になるための大事なこと | 11:14 | comments(0) | - |
                                                      人はなぜ争うのか?
                                                      0
                                                        「そんなこと考えた事も無い。」という方も結構多いのではないかと思います。「世の中、揉め事は付きものだ。」という考え方かも知れません。「そんなコトより、どうやったら争いに勝つかだ!」
                                                        このような一連の発想は、ひとつの「固定観念」から生じています。それは「争いは避けられない」というモノです。その「根拠」となっているのは、おそらくザックリとした「歴史認識や世界情勢、日々のニュース、加えて自らの経験智」などではないでしょうか。

                                                        そもそも「固定観念」というものは、ある事物や事象に対する人間の思考や行動を「自動化」する働きを持っています。これはこれでなかなか便利なもので、何かある度に、微に入り細にわたって1から考え直していては、実際大変です。「ああ、これはこうだな。」と瞬時に判断出来るのも、いわば「固定観念」のおかげです。
                                                        しかし、それはあくまで物事が「順調に運んでいる」場合の話です。トラブルやアクシデントが発生している時に、本当に自分自身を「自動化」したままで大丈夫なのでしょうか?

                                                        答えは「ノー」です。不測の事態が発生した時には、まず「固定観念」そのものに疑いを向ける必要があります。場合によっては、それこそ1から考え直して見る必要もあります。
                                                        何故なら「固定観念=思い込み」の元では人間のセンサーは、どうしても鈍りがちになっているからで、そのために「トラブルの元となった重要な要素」を見落としている可能性が有るからです。(敵は攻めて来ないと思い込めば監視体制は当然甘くなります)
                                                        古来より言い慣わされている「油断大敵」とは、まさにこのことです。

                                                        ところで「争いの全く無い」人生なんて、本当に有り得るのでしょうか?
                                                        答えは「イエス」です。ノウハウもきちんとしていますし、ちゃんと実証も出来ています。
                                                        しかし本当の問題は、「そのことに価値を見出(みいだ)せるか否か」というところにあるのだと思っています。
                                                        続きは次回に。
                                                         
                                                        | 青少年の味方の人 | 大人になるための大事なこと | 11:12 | comments(0) | - |
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