人が使う道具や機械には必ず「仕組み」があります。例えばテコの仕組みや回転する仕組み、伝達する仕組みなど、人間に便利さをもたらすための仕組みです。
それと同じように「社会」にも「仕組み」があります。それは社会がより便利で快適なものであると同時に、安全で安心出来るものであるために、長い時間をかけて考え出されてきたものです。
例えば「民主主義」も社会の仕組みのひとつで、その中には更にそれを実現させるための「議会制」や「選挙制」といった仕組みがあるでしょう。また「国家を維持、運営する方法」としての「司法、立法、行政の三権分立」や「政治と宗教を一体化しない」ための「政教分離」などの仕組みは、過去の経験などから「社会の安全性を高める」ための仕組みと考えられます。
要するに「仕組み」というものは、本来私たちの「快適と安心」のために提供されているものとして間違い有りません。
しかし、私たちはそのような仕組みの「本来の役割」の話だけを聞いて納得している訳には行かないのです。何故なら、ほとんどあらゆる仕組みは「悪用」することが可能だからです。
例えば、人間は「火を起こし、石器(=刃物)を使うようになって、著しい進化を遂げた」と言われて来たように、マッチやライター、包丁や鋏(はさみ)は、未だに生活に欠かせない物ですが、常に危険と隣り合わせの側面があることも事実です。どれも使い方次第では人を容易に殺傷する事が出来るからです。しかも皮肉な事に、優秀な道具であればあるほどその危険性も高まる傾向にあります。つまり私たちは、それを承知で「正しい教育による正しい理解」のもとに道具を使っているのです。
ところで「民主主義」には基本的に「多数決の原理」に基づいて「物事を決定する」仕組みが取り入れられていますが、そこには「多数決の横暴」という、包丁に例えれば「人を殺傷できる」という側面があります。
しかし「民主主義」は私たちの「快適、安心」の根幹で有りながら、そのための「正しい教育」を何時受けて、そのための「正しい理解」が何時なされたのか記憶に有りません。そのために「多数決が人を殺傷するために使われる」という感覚を持つことが出来ず、「多数決だからしょうがない」といったように「多数決の暴力」を見過ごしてしまう傾向にあるのです。
ですから今後しばらくは「多数決だから大丈夫」というような考え方は「身を滅ぼす危険思想」とでも思って、倉庫に鍵を掛けてしまっておいた方が良いと思います。
私が知る限り、「民主主義の名の下に多数決を暴力として悪用」する事は簡単です。
まず、わざと貧富の格差を作ります。なるべくゆっくり、じわじわと目立たないように、確実に作ります。
それが出来たら今度は適当な時期に、「これではいけない、何とかしよう」と声を上げます。
多くの人は「この人は自分たちの味方だ」と思うことでしょう。
思い方の足りない人には更に金銭的な援助を申し出ます。生活に困窮しているので、僅かな金額で心が動くでしょう。
そこで「選挙」をすれば、この人は確実に支持され「当選」するでしょう。
この中には倫理的な誤りや不正、法律違反が多々ありますが、地味に名目上それとわからないようにする方法はいくらでも有りますので、かなり確実な方法だと思います。また、みんなが豊かで不満がなければ、手ごろな金額で「買収」すること自体が難しいので、先に「みんなをしっかり困らせておく」ことがポイントとなるでしょう。
みなさんは、決してこんな底意地の悪い人になってはいけません。ただ、どうして正しいはずの「民主主義」や「多数決」が悪い結果をもたらすのかという「可能性」を知ることが、それを防ぐ手立てにつながると思います。
また、本当の意味では「独裁的」であろうが「民主的」であろうが、それ自体の「善悪」や「優劣」は有りません。何故なら「常に民衆の声を良く聞いて政治に生かそう」と考える独裁者であれば、何ら問題は無く、反対に「常に民衆を騙(だま)し、民意を操(あやつ)って自分たちの思い通りの政治をしよう」と企(たくら)む民主政権だってあるのです。
つまり物事の結果は「仕組み」によって決まるのではなく、「心」によって決まるのです。